「私たち生きものの中の私」から始まり、数千万種もいるとされる生きものの中でヒトという生きものが持つ特徴に注目しながら、私の生き方を探る旅は一息つきたい場所、ホモ・サピエンス登場のところまできました。ここで、これまでの道のりを簡単に振り返りましょう。

 ヒトは、生きものたちの進化の過程で、霊長類の仲間として森の中で誕生しました。けれどもあまり強くなかったので、森の食べ物が少なくなった時に遠くから食べ物を運ばなければならなくなり、直立二足歩行をし、結局森の外へと出ることになりました。そこでの生活は狩猟採集生活であったとされますが、あくまでも基本は採集であり、協力の単位は家族です。皆で一緒に食事をし、子どもを育てます。ヒトの特徴である共感能力を生かした、お互いの信頼を大事にし合う仲間です。時には大型獣の狩猟を行うこともありましたから、その場合は一つの家族だけでは力が足りません。いくつかの家族が協力する共同体(小さな社会)が生まれました。

 実は、同じ森林生活をしていた仲間であるゴリラは、シルバーバックを中心にした家族を中心に行動します。一方チンパンジーには家族はなく共同体しかありません。ところが人間は家族があると同時に、それの集まりとしての共同体もあるというちょっと複雑な構造をつくって暮らし始めたのです。

 ここでは、時に「今日は家族の事情で共同体としての役割ができません」ということも起きるでしょう。そんな時、仲間たちが「いつも皆のために働いてくれているんだし、今日は自分のことをやっていいよ」と言ってくれるようなら問題は起きません。普段のお付き合いで信頼関係ができていればきっとこう言ってもらえるでしょう。このように複雑な人間関係の中で、お互いの気持ちや状況を慮(おもんぱか)り合う仲間を作れるだけの共感能力を持っているのが人間なのです。これぞ人間の特徴であることは、今もなお続いているはずです。それを忘れないようにしたいですね。

人類の未来は?

 このような形で行われていた狩猟採集生活は、役割分担がありながら平等であったことも、今再認識したいことです。ここで重要なのは、「役割分担をしながら平等」というところです。「私たち生きものの中の私」という基本に戻れば、そこではすべての生きものは多様であり、それぞれの生き方をしながらそこに上下関係はないという姿が当然のこととして浮かび上がります。生きものの世界には「違いはあるけれど差はない」、つまり「区別はあるけれど差別はない」のです。人間も生きものですから、人間同士の関係がこれにあてはまるのは当然です。

 このような形で家族をつくり、共同体をつくって暮らすという人間の特徴を生かした生活は、これからどうなっていくのでしょう。実は私が問いたいのはここなのです。そもそもこの文を書き始めた理由の一つは、近年見られる格差社会への嫌悪です。きつい言い方かもしれませんが正直な気持ちであり、日々「格差社会は気分が悪い、これは人間社会の本来の姿ではない、なんとかしなければならない」と思っています。現在の格差は、いわゆるグローバル化の中での新自由主義に基づく経済活動が、人間が主体であることを忘れたシステムで動いているために起きていることです。そこを考え直さなければ格差はなくならないとは、多くの人が考えていることでしょう。その通りです。

 ところで、ここで問題になっている「人間を忘れている」という言葉の意味をよく考える必要があります。市場にすべてを任せてお金に振り回されている現状はもちろん問題ですが、その底にある、効率至上主義で便利さばかり求めてきた現代社会そのものを考え直さない限り、格差をなくす方向に動くことはできないのではないでしょうか。

 ここで考えなければならないのが、家族や共同体という形で語ってきた、人間が人間らしく生きる基本の姿の意味です。時代によってその姿が変化するのは当然ですが、それを無視し、崩壊させるのは人間としての生き方を捨てることになるのではないでしょうか。もう少し明確に言うなら、人間という時に必ず生身の人間のありよう、つまり「身体性」に目を向けなければならないということです。私が「人間は生きもの」というあたりまえのことをくり返すのは、私たちが今この身体性を忘れていることに危惧を抱くからです。一緒に食事をし、子どもを育て、お喋りをし合う仲間と生きていくことが生きる基本だと思うからです。

 ここでは一言触れるだけですが、人間とはなにか、どう生きるのかということを徹底的に考えずにデジタル社会に移ってよいのでしょうか。最近急速に現実味を帯び始めたメタバースのような身体を離れた世界を無制限に取り入れたら、滅びにつながる危険が大きいのではないかと気になります。環境破壊によって人類が生きていけなくなる危険性より、こちらで滅びる危険性の方が大きいような気がします。

猿人、原人、旧人、新人

 ここで一足飛びに現代を語ってしまいましたが、それを考えるには、これまでヒトとか人間という言葉で語ってきた対象に700万年という長い歴史があり、その間に猿人、原人、旧人と称する進化があったこと、現代人はそこから生じたホモ・サピエンスという種であることを確認しておかなければなりません。そして、人間とは何かという問いを、ホモ・サピエンスとは何かとして問うていかなければなりません。よく知られているように、サピエンスは賢いという意味です。賢いとは何か、これが今問いたいことです。

 700万年ほど前にチンパンジーやボノボとの共通祖先から生まれた人類の始まりは直立二足歩行を特徴としましたが、最初から現代人と同じように歩いていたわけではなく、樹上での生活との併用でした。それが草原へ出て行くにつれて、二足歩行が日常になっていく様子が化石を調べることによってわかってきました。440万年前のラミダス猿人は、まだ足が手と似た構造をしており、木登りをしていたと思われる姿です。

 次いで320万年前のアファレンシス猿人になると、骨盤にヒトの特徴が見られるなど、二足歩行が更に進んでいたことがわかります。これが見つかった時、発掘者たちがビートルズの「Lucy in Sky with Diamonds」を聴いていたので、ルーシーと呼ばれている有名な少女の化石です。興味深いのは、タンザニアのラエトリで360万年前の猿人のものとして見つかった足跡で、明らかに二足歩行をしているだけでなく、やや大きめな足跡と小さめな足跡が二つ並んで真っ直ぐ歩いているのです。このレプリカを博物館で見た時、自然に親子が手をつないで歩いている様子が目に浮かびました。家族の姿です。

 進化を続ける猿人は、顎の骨がとても頑丈な仲間と華奢な仲間に分かれます。270万年前頃から乾燥化が始まったアフリカで、前者は根茎類を食べ始め、後者は肉食を始めました。その後なぜか頑丈型の猿人は絶滅し、後者が次の人類、原人へとつながっていきます。猿人の化石は、アフリカ以外では見つかっていません。

 240万年前頃、華奢型であった猿人の中から脳が大きくなり、歯が小さくなったホモ・ハビリスと呼ばれる人類が生まれます。原人と呼ばれます。肉食をし、石器を使っていたことがわかりますが、この時の肉食は恐らく死肉であり、まだ本格的狩猟はしていないだろうとされます。石器がオルドワン型と呼ばれる単純なものであることからも、そう考えられます。単純とはいえ、日常的に道具を使うホモという仲間の始まです。

 原人にはもう一種、170万年ほど前の地層から発見されたホモ・エレクトスがいます。その後、150万年前の地層から全身の骨が見出されたホモ・エレクトスは、165㎝の少年で、現代人にかなり近い骨格構造とわかりました。日本人にはおなじみのジャワ原人や北京原人がホモ・エレクトスであるとされ、この時点でヒトはアフリカを出て、アジアへ進出していたことがわかります。人類はこんなに早くから、新しい地へ向けての動きを示していたというのですから、本来新しいものを求める性向があったのですね。原人の作った石器は握り斧型と呼ばれ、打ち削った時にできる剥片を用いていたホモ・ハビリスのオルドワン型とは異なり、石核の方を利用する本格的なものです。

 次に登場するのが、ヨーロッパにいたネアンデルタール人を代表とする旧人です。もっとも旧人もアフリカで進化したことは、60万年前の頭骨の化石がエチオピアで発見されていることからわかっています。とはいえ、もっとも研究が進んでいるのはネアンデルタール人であり、30万年以上前にヨーロッパで生まれ、アジアにも広がった仲間です。ネアンデルタール人は、その後に生まれたホモ・サピエンス、つまり私たち現代人よりも体も脳も大きく、木製の槍に石の槍先をつけて狩猟をし、充分な肉を食べる生活をしていたと思われます。体つきががっしりして腕や脚が短いのが寒さに強かったことを思わせます。

 そしてホモ・サピエンスです。新人と呼ばれ、現存の人間はすべてこの仲間です。新人の化石として有名なのが、やはりヨーロッパにいたクロマニヨン人であり、ネアンデルタールから進化したと考えられた時もありましたが、今ではDNAの解析によって新人の起源もアフリカにあることがはっきりしています。猿人に始まる人類の故郷は、すべてアフリカなのです。

 これで、これまでの章に書いてきた人間という言葉には、700万年間のさまざまな人の姿が含まれていることが分かっていただけたでしょうか。こうして、猿人、原人、旧人、新人という流れを見ると、姿形や生活が少しずつの変化しながらも、その底には変わらないものがあり、それがこれまで人間として語ってきた家族、共同体などとして表れていることがわかります。

 これからは私たち人間としてホモ・サピエンスを見ていくことになりますが、アフリカの森林から生まれて以来の長い歴史が、今の私たちの身体に刻み込まれていることを忘れてはなりません。

 改めてくり返します。これからの社会を考えるにあたっても、「人間は生きものであり、自然の一部」ということの意味を忘れず、私たちの身体に組み込まれたホモ・サピエンスとしての20万年の歴史、ヒトとしての700万年の歴史、生きものとしての38億年の歴史を生かすことが重要です。そのうえで、これまで積み上げてきた学問、とくに近年の科学の成果に学びながら、これからの生き方を考えていきます。