――ユダヤ教にはナチスのホロコーストをはじめとして、本当に苛酷な迫害の歴史があるわけですけど、それによって改宗する人もやはりいたんですよね。
キリスト教に改宗するユダヤ人というのはどの時代にも一定数はいたんです。でも、せっかく改宗しても、それはそれで「改宗ユダヤ人」という新しいカテゴリーに組み込まれるだけで、「ユダヤ人」のタグは外せない。
――どうしてわかっちゃうんですか。
どうしてなんでしょうね。ちゃんと教会に行って、戒律や儀礼を守っていても、何かのはずみにわかってしまうのかも知れません。質問されると、つい質問で返してしまうとか。「なぜですか?」と訊かれると、自動的に「どうしてあなたはそのような問いを立てるのか?」って反問してしまう。すると「あ、お前ユダヤ人だな」ってわかるとか(笑)。
――議論する宗教なので、ついラディカルに考えちゃうと。 改宗しても身体にしみ込んだそういう考え方っていうのは、変わらないんですね。
最終的な解を求めてはならないということはユダヤ人の場合は、あらゆる発想の根本に刷り込まれていますからね。簡単には消せないんじゃないかな。
1492年にイベリア半島でスペイン王がユダヤ教を禁止したことがありました。それまで王国内にはたくさんのユダヤ人が住んでいて、手広く貿易やったり、大臣になったりしていた。だから、「ユダヤ教を禁止する。改宗しないものは全財産を没収の上、国外追放」と言ったら、既得権益を守るためにみんなキリスト教に改宗するだろうと思っていた。そしたら、意外にもほとんど改宗者が出ないで、多くのユダヤ人が財産も地位も棄てて、ぞろぞろイベリア半島から出て行ってしまった。禁教した王様はずいぶんびっくりしたらしいです。
――価値観がまるで違うんですね。財産を守るとか、子孫のために土地を残すとか、そういうことじゃない。
僕たち非ユダヤ人には、簡単に想像がつきませんけどね。信仰を捨てると、自分が自分でなくなってしまうというくらいに信仰が身体化しているということじゃないですか。
――歴史を見ると、キリスト教は世界中をキリスト教徒にすることを目指してきたように思うんですけど、ユダヤ教もそこは同じですか。
いや、ユダヤ教は布教ということをしません。
――え、布教しないんですか?
そこが他の宗教と大きく違うところです。こんな面倒な信仰を守るのはわれわれだけで十分だって言ってるわけです。ユダヤ教の場合は戒律が非常に多いのです。「やるべきこと」が248、「やってはいけないこと」が365。合わせて613の戒律がある。ユダヤ教徒はそれをすべて守らなければならない。でも、一般の方々にはそれほどタイトな要求はしない。普通の人は「虹の契約」と呼ばれる基本的な七つの戒律だけを守っていればいい。神を信じる、神の名をみだりに唱えない、人を殺さないとか、姦淫を犯さないとか、そういう基本の七つの戒律さえ守っていれば、非ユダヤ人は天国に行ける。一方ユダヤ教徒は613、非ユダヤ人は7。これだけの差があるわけです。
だから、「神の選民」であるというのは特権ではないのです。それだけ要求が厳しいということなんです。だから、ユダヤ教徒は非ユダヤ教徒に布教しない。「何も好き好んで、こんな厳しい宗教信じることないですよ。もっと気楽に暮らしても天国に行けるんですから。どうぞお気楽に」って。でも、そう言われると、ムッとするじゃないですか。あなたたちは霊的に未熟だから、未熟なままで入れる「子ども用天国」にどうぞと言われているみたいな気がして。
――ちょっとわかります。
ふつうはうちの宗教を信じないと地獄に落ちると脅かすでしょう? ユダヤ教はそうじゃないんです。ユダヤ教なんかに改宗しない方がいいですよって言うんですから。不思議な宗教ですよね。
宗教と科学
――先生がユダヤ人やユダヤ教に興味を持たれたきっかけは何だったんですか。
一つはやはりホロコーストですね。600万人ものユダヤ人がなぜ組織的に殺されなければならなかったのか。それともう一つは、どうしてユダヤ人はこれほど多くの分野でイノベーティブな活動ができるんだろうってことです。
現に、ノーベル賞の受賞者の数が半端じゃないわけですよ。ユダヤ人って世界中に1500万人しかいないんです。人類の総人口の0.2%です。にもかかわらず、ノーベル医学生理学賞受賞者の26%、物理学賞の25%、化学賞の18%をユダヤ人が受賞している。この比率は明らかに異常ですよね。これはユダヤ人が「脳の解剖学的組成が違う」のでなければ、彼らが集合的に「何か独特な知性の使い方をしている」と考えるしかない。それは何か、ということに僕は興味があったんです。
――偶然ではありえない割合ですよね。
ノーベル賞の受賞たちのリストはイスラエル政府のHPに載ってますけれど、この人たちは必ずしも全員がユダヤ教徒というわけではないんです。キリスト教に改宗した人もいるし、あるいは無神論者だと言う人もいる。でも、そういうことと関係なしに、「ユダヤ人的家風」のうちで育ったということでものの考え方に独特なツイストが加わってしまうんです。それは何度も言っているように、物事を簡単な、一義的な解釈で片づけてしまうことを厳しく自制するということですね。シンプルな「解」に落ち着いて、話を終わらせることがどうしてもできない。それよりは、あれこれととっちらかした状態にしておいて、延々とああでもない、こうでもないと言い続ける方が落ち着く。
でもそれって、実は自然科学の進化のプロセスそのものなんですよね。ランダムに見える現象の背後にある種の法則性があると思って、それを説明するための仮説を出す、反証事例が出てくる、仮説を書き換える、また反証事例が出て来る、また仮説を書き換える・・・その繰り返しです。世界はこうなっている、この法則一つですべてが説明できますという「最終的解決」に決して到達しないのが自然科学です。だから、ユダヤ人と科学は相性がいいんです。
――物理学者は世界を一行で記述できる「絶対方程式」を追い求めているとかって聞きますけど、実際にはそんなものはないわけですね。ないというか、辿り着かない。辿り着いたらそこで終わっちゃいますもんね。
だって、宇宙の起源とか、宇宙の果てがどうなってるとか、時間がいつ始まっていつ終わるかなんて、誰も答えようがないでしょう。僕たち自身が宇宙の中で生き死にして、時間空間という根源的カテゴリーの中に閉じ込められているんだから。「その外側」というのは人間知性では思考不能なわけです。
旧約聖書の『ヨブ記』には、主がヨブに「世界が始まったときにおまえはどこにいた。世界の果てがどうなっているのか、宇宙がどこから始まって、どこで終わるか、おまえは知ってるのか」と訊いて、人間知性の限界を教える場面がありますけれど、あれは自然科学者の持つべきマインドを教えているわけです。
ランダムに見える現象の背後には神の摂理があるという宗教的な確信と、ランダムに見える現象の背後には美しい数理的秩序が存在するという自然科学者の確信は、構造的には同じものなんです。それは人間の知性、人知の及ぶ範囲は非常に狭いということについての自覚です。世の中のすべてはシンプルな仮説で説明できるという考え方がもっとも非宗教的であり、かつ非科学的であるわけです。
――真摯な科学者であればあるほど、人知が絶対に及ばないものがあることを自覚している。でもそこに一歩でも、半歩でも近づきたい。
それには、いま自分がしているような知性の使い方をしている限り望みはない。だから、自分がなじんでいる知性の使い方とはとにかく違う使い方をしなきゃいけない。対象を違う視点から見なきゃいけない。
――それはでも、ストイックというか、ストレスフルというか
そうです、知性を活性化するというのはけっこうストレスフルなんです。本人だけじゃなくて、周りの人にもストレスをかける。だって、どんな話題についても何か言うたびに「それとは違う見方があるんじゃないか?」って言われるわけですからね。