影響力をめぐる議論
――次にマスコミュニケーション研究の歴史と言いますか、理論の変遷についてお聞きしたいと思います。先ほど1940~60年代のアメリカで、マスメディアの効果は限定的であるとする「限定効果理論」が支持されたというお話がありましたが、どういった理屈で限定的になるんですか。
「限定効果理論」は、人びとはマスメディアが伝える情報を受動的に鵜呑みにするのではなく、自分がもともと持っている意見に基づいて能動的に選び取っているという立場をとります。これを選択的接触といいます。受け手側が情報の取捨選択をするわけですから、当然マスメディアの影響力は限定的になるわけです。
加えてこの理論は、マスメディアによる情報は、他の人びとの意見に影響を与える「オピニオンリーダー」を経由して伝わっていくと主張します。いまの言葉で言うとインフルエンサーですね。オピニオンリーダーは普通の人よりも熱心にマスメディアに接触し、いろいろな情報を蓄えてそれをフォロワーに伝える。これをコミュニケーションの二段階の流れといいますが、かれらは情報を自分の尺度や価値観というフィルターにかけるので、何でもかんでも伝えるわけではありません。そのため、こういったオピニオンリーダーが存在するということも、マスメディアの影響力が限定的であることの証になるわけです。
――なるほど、よくわかりました。
ちなみに限定効果理論が出てくる前の1920~40年代には、マスメディアが人びとの意見に与える影響はきわめて大きいとする「弾丸効果理論」が支持されていたとされます。魔法の弾丸が人びとの心を撃ち抜くように、マスメディアは人びとの考えを一瞬で変えてしまうというわけです。ただ、この理論の存在には議論の余地があり、この時代にマスメディアの影響力が非常に大きいという社会通念があったことは確かなものの、それが学術的に理論化されていたかどうかは研究者の間でも意見が分かれています。
――第二次大戦ではプロパガンダに対する猜疑心が高まったというお話がありましたが、そのことがマスメディアの影響力に対する評価にも関係してそうですね。
その通りです。実は限定効果理論は、民主主義の健全さを裏打ちする議論にもなりえるんですよ。新聞やラジオがどれだけ画一的なメッセージを流したとしても、人びとがそれを主体的に判断して取捨選択したり、オピニオンリーダーを介してしか広がらないのであれば、権力が国民を簡単にコントロールすることはできません。当時のドイツのような全体主義国家はともかく、アメリカの民主主義にとってマスメディアは脅威にはならないんだ、というわけです。ただ、これにもちょっと微妙なところがあって……。
第一次大戦では、敗北したドイツだけでなく、アメリカもまたイギリスのプロパガンダにやられたと思っていました。うまく乗せられて無駄な戦争に参戦させられたと。その苦い記憶があるので、第二次大戦でイギリスがいくらアメリカに支援を訴えても聞く耳を持ってもらえない。そこでイギリスがどうしたかというと、プロパガンダをアメリカにも届く短波放送で発信すると同時に、親英的なアメリカの知識人や著名人にコンタクトを取り、そのプロパガンダを好意的に広めさせたんです。
これはまさに先述したコミュニケーションの二段階の流れで、限定効果理論と同じ理屈なのですが、限定効果理論が想定しているオピニオンリーダーと、イギリスのプロパガンダを仲介するエージェントでは、意味合いがぜんぜん違いますよね。前者が民主主義の健全さを裏付ける存在であるのに対し、後者は外国の手先になって国民を扇動するので、民主主義でも何でもないことになってしまう。
――むしろアジテーターですよね。
第二次大戦中はこの民主主義における限定効果理論の研究と短波放送の研究の二つが並行的に行われていて、研究者も重なったりしていたんですけど、戦争が終わると後者の研究はすうっと消えていきました。戦後は、アメリカは世界をリードする非常に優れた社会だという認識が広まっていくので、外国のプロパガンダを仲介するエージェントの話より、オピニオンリーダーが多元的な民主主義の担い手としてアメリカの活力を支えているといった話の方が、ずっと受けが良かったのでしょう。
このように、マスメディアの情報をフォロワーに伝えるという役回りは同じでも、それがどのように機能し、世間にどう捉えられるのかは、置かれた状況や文脈によってぜんぜん変わってくるわけです。
メディアはアジェンダを設定する
――限定効果理論の次に出てきたのはアジェンダ設定理論ということですが、この理論が出てきたきっかけは何だったんですか。
これはちょっと生々しい話なんですけど、限定効果理論がマスメディアの影響力の小ささを示せば示すほど、マスコミュニケーションの研究者がいなくなるという事態が生じたんですね。そんな影響力の小さなものをわざわざ研究する必要なんてないだろうと。その一方で、限定効果理論が出た頃には一部の家庭に限られていたテレビが普及しはじめ、人びとはテレビ画面の前で多くの時間を過ごすようになりました。すると、これだけ多くの人が見ているのに影響力が小さいというのはおかしいと考える人が現れ、新しい理論を展開するようになります。その一つがアジェンダ設定理論というわけです。
アジェンダ設定理論のポイントは、(弾丸効果理論や限定効果理論がそうであったように)マスメディアが人びとの意見に及ぼす影響ではなく、人びとの現実認知に及ぼす影響に着目したことです。ある事象についてどのように考えるかではなく、その事象をまさにいま考えるべき問題(=アジェンダ)として設定する。その点にこそ、マスメディアは大きく関与しているんだというわけです。
近年はマスメディアのアジェンダ設定能力はかなり落ちてきていますが、イオンシネマの車いすの話ってご存知ですか?
――はい。車いすの来場客に対して劇場の支配人が、次回以降は他の劇場を使用するように勧めた話ですね。
あれには、車いすユーザーの権利をもっと拡張すべきだという人もいれば、要望ばかり聞いているとキリがないので劇場側は間違っていないと考える人もいます。いろいろな意見はあるんですけど、そもそもあの話がSNSに投稿されたことで多くの人が関心を持ち、ああだこうだと言い合うことができる。それこそがメディアの影響力なんだ、というのがアジェンダ設定理論の発想です。
――メディアが取り上げることで議論の俎上にのるというか、こういう問題があるということがみんなに共有されるわけですね。
そういうことです。なので、問題提起する側としては、いかにして自分たちの関心や問題意識をアジェンダという形で社会に広めていくが重要になってくるわけです。
ただ、アジェンダ設定理論にはそこそこ長い歴史があり、最初の頃はいまお話したように、マスメディアは人びとの意見ではなく認知に対してのみ影響を及ぼすと言っていたんですけど、だんだんと、やっぱり意見にも影響を及ぼすのではないかと考えられるようになりました。というのも、メディアが何をアジェンダとするかによって、人びとの情報の取り入れ方や解釈が変わってくる可能性があるからです。
ちょっと古い話になりますが、民主党政権の時代に沖縄の普天間基地の移設問題がメディアで大きく取り上げられました。実は鳩山政権としては当初、この問題をそこまで大々的にというか、政権運営の主柱として取り組む予定はなかったのですが、それがアジェンダとなり、人びとの耳目を集めることになってしまった。すると政権はその対応を迫られるわけですが、思ったような政策を打ち出すことができず、支持率がどんどん下がっていくという事態が生じたわけです。
今はそれこそ自民党の裏金問題がアジェンダになっていますが、結局どの政権や政党であっても都合のいいアジェンダと悪いアジェンダというものがあるので、なるべく都合のいい方を前面に出して、世論をいい方向に誘導したい。しかし、なかなかそううまくはいかないということですね。
――逆に言えば、そういった権力の意に沿わないという所にこそ、マスメディアというかジャーナリズムの存在意義があると思うのですが、最近はそうしたジャーナリズムによるニュースと、世間の注目を集めるニュースの間に乖離があると感じることがあります。
そうですね。以前はさまざまな情報網から仕入れた「ネタ」や地道な取材活動によってマスメディが記事やニュースを発信し、それによって社会のアジェンダが設定されていくという流れでした。ところが、さっきもちょっと言いましたけど、インターネットやSNSの普及によってマスメディアのアジェンダ設定能力が落ちてきているのは事実です。
知り合いの新聞記者が言っていましたが、最近は自分の書いた記事がどれだけのPV(閲覧数)を稼いだか、何人の有料会員を獲得したかといったことがすごく問われるようになってきているようです。こうした状況で、たとえば、何年も取材して書いた記事のPVがあまり上がらず、既出の情報をまとめただけの「こたつ記事」がバズったりということが起きると、一人ひとりの記者の中で葛藤が生まれるのは想像に難くありません。
――自分が伝えるべきだと思うニュースと世間で受けるニュースが食い違うのは歯がゆいでしょうね。しかも、後者は大体ゴシップ記事だったりするんですよね。
とはいえ、じゃあすべてのメディアがPV至上主義になっているかというとそんなことはなく、受ける記事で稼ぎつつ、伝えるべきことはしっかり伝えるというバランスでやっているところがほとんどです。
Yahoo! のトップでも、上の方は社会的な問題に関するトピック、下の方はスポーツとかエンタメの楽しい話、さらにその下はユーザーの好みや閲覧傾向に合わせたニュースを表示するようになっていますよね。あれを見てよく、自分はこんなくだらないニュースばかり見ているのかと反省するのですが、ネットメディアが個人の趣味嗜好に最適化されることを踏まえると、以前のように一本の記事や一つのメディアの主張によって社会全体のアジェンダが設定されることは起こりにくくなってきていると思います。