――自分の命が過去から続いてきているものだというのはなんとなくはわかっていたつもりだったんですけど、ご著書『生命誌とは何か』の「あなたのゲノムには、生命誕生以来の長い歴史(38億年以上とされる)が書き込まれている」という部分を読んで、そのことが物質としてわかるのはすごいなと改めて思いました。
私たちの細胞のゲノムと他の生きもののゲノムを比べるとそれぞれの歴史と同時に両者の関係が見えてきます。みんな同じDNAをもっているんです。
機械はそんなことないですよね。私が子どもの頃のラジオは真空管で動いていましたが、今はそんなものどこにもないでしょう? カセットテープも、フロッピーディスクも、どこかへ行っちゃったじゃないですか。
機械の世界では古くなったものを捨てていくけれど、生きものではそれが残っている。どこかへ行ったりしないんです。ある生物が絶滅はしますよ。恐竜はあるとき絶滅したけれど、そのDNAは鳥の中に残っている。だから、機械の世界とは全然違うんです。
――科学は価値判断ができないということはよくいわれますが、科学が明らかにしてきたことから、なにを大切にすればいいかを考えることはできる気がしてきました。
数字やデータの世界では、たしかに価値判断はできません。でも、それを私の日常と重ね合わせての価値判断はできる。それは科学のではなく、私の価値判断です。科学に価値の基準はなくても、一人ひとりの科学者は人間なんですから、各自が価値判断をしていかないと。そこで大事なのが物語です。生命誌は「生きものの歴史物語」です。数式やデータではありません。これからは物語が大事です。
――先生はご著書(『科学者が人間であること』)の中で、学問分野を融合させるのではなく、さまざまな学問を科学者の中で融合させなければいけないという風におっしゃっていますね。
私には違う分野のお友達がたくさんいて、ケルト芸術文化の研究をしている鶴岡真弓さんともお話しましたけれど、お互いに学び合うことがたくさんありました。それはケルト文化と分子生物学が融合するのではなく、鶴岡さんと私の中で融合するんです。それをいろんな人といろんな形でやればもっと融合して、とても面白いことができる。
私はプロセスが好きなんです。生命誌研究館ではずいぶんいろんな舞台をやりましたけれど、最後に『セロ弾きのゴーシュ』の人形劇をつくりました。
――宮沢賢治の代表作のひとつですね。私も大好きな話です。
あるとき、研究館の20周年でそれをやろうと思いつきました。それでまずはプラハで活躍している――プラハは人形劇がとてもさかんな所なのですが――お友達の沢則行さんに連絡して「やってくれる?」と聞いたら「やるやる」といってくれた。じゃあ、『ゴーシュ』はどうしようかと考えて、研究者仲間の息子さんが京都大学の大学院まで行ってから、チェリストになったのを思い出した。彼――谷口賢記さん――ならゴーシュをやれるかもしれない。
『セロ弾きのゴーシュ』の舞台は山ほどあるけど、本物のセロ(チェロ)弾きがゴーシュをやった舞台はひとつもない。じゃあ、私がはじめてやってみよう。そういうことを考えているときがとても楽しいんです。
舞台で使う人形は京都芸術大学のヤノベケンジ[*6]さんとそこの学生さんたちがボランティアでつくってくれることになり、かれらと一緒にお人形さんをつくってるときも新しいアイデアがどんどん出てくる。そういったプロセスが私は大好きなんです。
できあがった舞台を見たみなさんは素晴らしいと褒めてくださって、それはもちろんうれしくないわけではないんですけど、そのことより、つくっていくプロセスのほうが断然楽しい。
――つくっている時の方が楽しいというのは、私自身もすごく共感します。
ね、それが生きてるってことでしょう? だから、みなさん、プロセスをもっと楽しみませんかって思うんです。仮に結果が失敗だとしても、プロセスが楽しめたらそれでいいとも言えます。
――今の社会はとにかく結果、特に数字を求められますよね。偏差値だったり、売り上げのノルマだったり……。その結果、お金を儲ける以外にやりたいことがないという人が大半となってしまったように思います。
私は新自由主義と金融資本主義が大嫌いです。この中では本当に生きることはできない。今の社会は明らかに選択を誤ったと思います。
私ははじめから反対で、これは違うっていってたけど通じませんでした。理想的な社会なんてないので、いつでもいろんな問題はあるけれど、新自由主義と金融資本主義は生きものとしての人間を生きにくくする。やってはいけないことだったと思います。
――さっきの多様性の話でいうと、新自由主義ってまさにアリとライオンを同じ土俵で比べるようなものですよね。
すべてを数値に還元して競争させ、駄目なものは蹴落とす。こんなの、面白くもおかしくもないじゃないですか。全然面白くない。
――ただ、社会がそうなってしまっている以上、多くの人がその価値観に従っているのが現状です。
なんでこんなことになったんだろう。若い人や子どもたちには、本当にお詫びをするしかない。
私は今、自分の一生を振り返ってなにが思い出せるかといったら、いつもいい大人がいたということです。あらゆる時点でいい大人を思い出すことができる。私が競争に興味がないのは、生まれつきの性質もあると思いますが、両親に競争を強いられたことがないのが大きいと思います。なにかをしなさいとか、あそこの学校に行きなさいなんて、一度もいわれたことがない。
それに、小学校、中学校、高校の全部でいい先生を思い浮かべることができます。大学や大学院、その後もずっといい先生ばかりで、本当にいろんなことを教えていただきました。自分がこういう歳になってとても心配なのは、今はいい大人がいないんじゃないかということです。
――それは私もずっと感じてきましたし、自分自身が今そうなれていないという自戒の念があります。
学者だって今はお金が欲しいとか、そういうとこでしか動いてない。表立っては言わないけれど、そうじゃないでしょうって思うようなことをなさるんです。私が尊敬したり、学者として素晴らしいと思っている人まで。
だからといって、やってはいけないと勝手なことは言えないから黙って見ていますけれど、ちょっとつらいですね。それが新自由主義と金融資本主義です。本当に非人間的なシステムだと思う。
――多様性を消す仕組みですよね、本当に。
多様性を消す仕組み、プロセスを消す仕組みです。
――極端な話、狩猟採集時代とかの方が、人間にとって、今よりもある意味幸せだったんじゃないかって思うことがあります。そのときは人間も他の生きものと同じように、生きることに一生懸命だったわけですよね。もちろん食べ物が見つからなかったり、自然の脅威にさらされたりで大変なことはいっぱいあったんでしょうけど、少なくとも自然との一体感だったり、生きている実感だったりというのは、今よりもはるかにあったんじゃないかって。
そのときにも辛さはいっぱいあったでしょうから、どっちが幸せかというのはいえませんけど、生きものとしてはそっちの方が自然でしょうね。そこへ戻ろうとは思いませんが、その時の幸せは味わいたいですね。だから現在のよさを生かしながら本来の生き方を求めるという、ある意味ぜいたくなことを求めているのが「生命誌」なんです。
今の社会はあまりにも結果だけを重視しすぎています。結果がどうでもいいとは申しませんけど、大事なのはプロセスでしょう。教育でも、研究でも、芸術でも、政治でも、もっとプロセスを大事にしてほしい。生きることはプロセスなんですから。
(取材日:2020年8月12日)