次に出てきたのは、馬祖という人の禅です。馬祖禅でも人は本来仏だという前提は変わらないのですが、自己の中に迷いの部分と悟りの部分があるという二分法で考えない。迷っていようが、悩んでいようが、この生き身の自己の全体がまるごとそのまま仏だ、ありのままで仏なんだ、そう考えた。
じゃあ仏性はドコにあるのかっていうと、それだけを独立に取り出せるようなものとしてあるんじゃなく、目に見えない形で全身に行きわたっている。仏性が仏性自体として存在しているのではなく、見えたり、聞こえたり、しゃべったり、歩いたり、寝たり、食べたり……、そんな活き身の人間の営みの上にあまさずはたらき出ている、そう考えた。言ってみれば、ロボット動かしてる電気みたいなものですね。
――電気?
ロボットが歩いたり話したりするのは、目に見えない電気のエネルギーがそれらの動きとして表れているってことでしょ。でも、電気だけを取り出すことはできない。馬祖禅では、仏性をそんなイメージで考えた。これはおにぎりでいうと「五目おにぎり」です。「五目おにぎり」は、「梅干しおにぎり」のように具とご飯を分けられない。「具の全体」イコール「ご飯の全体」イコール「おにぎりの全体」。仏性とその人の身心の動き、営み、はたらきとは分けることができない。仏性だけを独立して取り出すことはできない、それは目に見えないエネルギーとして全身心にゆきわたっている、そういう考え方です。
これは、現実の自身とは別のところに本来の自己を見つけようとアクセクしている人々――「自分さがし」幻想に追い立てられて却って自分を見失っている人々――にとっては、きっと革命的な解放の作用があったと思います。でも、最初からこれを「正解」として知ってしまうと、後にあるのはひたすら自堕落でグウタラな生活のみ。
――ただこうして生きているだけで、仏性が現前してるわけですもんね。
それではいけないんじゃないかと思う人が、当の馬祖の門下から出てきた。馬祖禅の偉大なところ――これは中国の禅全体にも言えるんですけど――自身の内部から批判者を生み出しつづけていったってことなんです。禅が長い間生命を保ち続けてきたのは、それが理由だと思います。馬祖の弟子がもう、その考えはおかしいって言い始めた。
――ありのままじゃ駄目だと。
そう。その影響を受けた人たちが、石頭(せきとう)系の禅と呼ばれる第二の主流派を形成します。かれらは、仏性と等しい本来の自己と、歩いたりしゃべったりしている現実の活き身の自己とを「五目おにぎり」のように一緒くたには考えません。かといって、「梅干しおにぎり」のような別物とも考えない。本来の自己と現実の活き身の自己とは、二にして一、一にして二、という深遠玄妙な不即不離の関係にある、と、まあ、非常にややこしいことを考え始めたわけです。
――なにか具体的な例をご紹介いただけますか?
たとえば、洞山(とうざん)という人。この人は、歩いて川を渡っているとき、川面に映った自分の姿を見て、もともと仏である本来の自己と、現に歩いている活き身の自己、その両者の関係性に気づいた。映っているのは誰か? 自分だ。ほかの人じゃない。じゃあ、お前はあの影なのか? いや、ちがう。あれは影であって、自分じゃない。自分はここにこうして歩いている……。両者は常に同時同所に存在しながら、永遠に交わることがない。でも、洞山という同一人であることに変わりはない……。
――ややこしいですね。それは、おにぎりでいうと?
「天むす」! おにぎり屋さんのウインドウの前で一生懸命考えました。天むすは、天ぷら定食とは違う。天ぷらとご飯は分かれていない。あくまでも一個のおにぎり。天ぷらはご飯か? 違う。天ぷらはご飯じゃない。ご飯は天ぷらか? 違う。ご飯は天ぷらじゃない。じゃあ、ご飯と天ぷらは別物か? それも違う。あくまで一個のおにぎりだ。そんなふうに自己を考えた。だから本来の自己と現実の活き身の自己は、同じものと言えないけど、別のものとも言えない。二つで一個のおにぎりだ、一人の自己だ、と考えたわけです。