――この社会の問題というのはいくつもあると思うんですけど、そのうちの一つに、多くの人が、どのように生きるかを見失っているということがあるように思うんです。インターネットやらAIやらで世の中はたしかにどんどん便利になっているけど、本当にそれだけでいいのかなって思う人が――私自身も含めて――最近やっと増えてきたようにも見えるのですが、まずはその辺りのお話からお聞かせいただけますか。

 私は、人間は生きものという当たり前のことを基本に置いています。人間は生きものです、だから生きものとして生きましょうと。私は別に、生きものは素晴らしいとは思っていません。へんてこです。私たちはしょうがなく、そのへんてこなものとして生まれちゃったわけです。でも、生きものはとても面白い。ある意味、へんてこだからこそ面白い。自分も含めてです。

 それに比べて、科学の世界は「ちゃんと」しています。お月さまが動く動き方もりんごが落ちる落ち方も、ニュートンの同じ方程式でびしっと書ける。アインシュタインの理論は宇宙のすべてに通じる。人間はその科学の法則を使って、人工の世界をつくってきました。

 ほとんどの人がその世界にはまり込んだのは20世紀の後半、日本だと太平洋戦争の敗戦以降だと私は思いますが、ともかく人工の世界のものは、自動車でもカメラでもコンピューターでも、法則に則ってつくられ、法則の通りに動く。そういうものはとても扱いやすい。科学は進歩したと言いますが、その扱いやすいものだけの世界が進歩してきたわけです。

――なるほど。

 生きものたちの世界はそれとは違います。式では書けない。

 生きものとは何かというと、お勉強してらっしゃる方はよくご存じでしょうけれど、膜で囲まれている、代謝をしている、DNAを基本に複製・増殖する、進化をする。生物学という学問の中での定義はそれです。それはとても大事です。私はこれを勉強してきましたし、これを否定する気はありません。

 ただ、これはやはり扱いやすい世界を考える考え方での定義です。コンピューターも自動車も否定する気はない。その世界はその世界としてある。だけど、お日さまが照り、雨が降り、その中で日々暮らしている生きものをうまく捉える考え方をしたいのです。

――法則では扱えないものを。

 フランソワ・ジャコブというフランスの分子生物学者――ジャック・モノーと共にノーベル生理学医学賞を受賞した人ですが――がそれをうまく言い表しています。ジャコブは、生きものとは何かと聞かれたら、一番目が予測不能。二番目がブリコラージュ、つまり寄せ集め、三番目が偶然、偶有性。この三つだと。

 私はずっと生きもの見てきましたが、本当に予測できないし、寄せ集めだし、たまたま起こった、たまたま何とかなったということでぜんぶできています。したがって、へんてこりんです。月や星の動き、自動車、コンピューターといった、法則で扱えることをやってきた人間からすると一番分かりにくい。だから学問はここが一番苦手で、ずっと放り出されてきていました。

 でも、私たちの日常がどこにあるのかと言ったら、お月さまの世界でも、コンピューターの中でもない。地球上の、生きものの中にあるんです。私たちはずっとそこで生きてきたから、本来日常で暮らすのは得意です。お隣やご近所の方と一緒に暮らすっていうなら、何の問題もなく、楽しくやっていけるようにできています。

――そうですよね。

 ところが、世界を動かしている人たちが、あたかも法則で動く世界こそがこの世界のすべてであるかのように決めつけて、ぜんぶここでやれ、早く答えを出せと子どもたちを教育する。そういう世の中をつくってきた。

 私は生きものの世界の方が素晴らしいとは言いません。こっちの方が面倒です。面倒だけど、ここで生きるということが本当に生きることじゃありませんかと言いたい。どんなに面倒でも、わけが分からなくても、お互いに信頼し合いながら毎日を暮らして、一生を送りましょう。それが生きるってことじゃありませんかっていうのが、私がこの半世紀ずっと言い続けてきたことです。

――今の世の中はその真逆ですね。効率や便利さだけをひたすら追い求めてきました。

 法則や論理で世界を捉える、それも大事なんですよ。私も科学を勉強しまして、私の頭の中には論理があるわけですから、わかったことを活用していくのは大事だし、とても暑かったら熱中症にならないように空調を入れるとか、ご飯を炊くのにかまどじゃなくて炊飯器を使う。それは当たり前のことです。

 でも、人間を機械のように見てはいけない。この世界をまるで機械の世界のごとくに考えて、子どもまで機械のように育てようというのは違うでしょうって、ずっと言い続けてきたんです。残念ながら、世の中はどんどん機械の方に行ってしまった。

マルかバツか

 この間、不登校の子どもたちのところへ行ってお話をしてきました。先生方はいじめなどで命が大事にされていないとお思いになり、私に、命は大事で素晴らしいという話をしてほしいとおっしゃいました。

 でも私は、命は大事で面白いとは言うけど、素晴らしいとまでは言いません。先生は命は大事とおっしゃいます。私もそう思う。だけどきみたち、今日、給食を食べたでしょう? そこに豚肉が出てきたよね。あれって何? 生きものでしょう? みんなそれをぱくぱく食べたじゃない。大事だから殺してはいけないと思いながら、そのお肉を食べないと、私たちは生きられない。

 たとえば私がダイヤモンドを大事で素晴らしいと思ったら、ずっと大事にできる。でも、命が大事って言っておきながら、次の日には殺して食べている。だから、命っていうのはとても複雑で分かりにくい。簡単に素晴らしいなんて言えない。

 大事は大事なんです。ブタの命だって、アリ1匹だって大事なの。いい加減につぶしちゃいけない。それは私が本当に大切にしていることで、たとえばその辺にある機械は1週間とか、どんなにかかっても数カ月とかで作れるでしょう? でも一匹のアリは、地球上に生きものが生まれてからの38億年という時間がなかったらここにいない。すべての生きものには38億年という時間が入っているんです。その時間への責任は、そんな簡単に取れませんよ。

――おっしゃる通りです。

 でも、すべての命を大事と思いながら、それを奪うこともせざるを得ない。だから、命はマルかバツかでは決まらないのよという話をしました。

 そしたら中学2年生の男の子が手を挙げて、もう一回、マルかバツかっていうところの話をしてほしいと言うんです。「僕はこれまで学校でずっと勉強してきたけど、マルかバツかじゃないことがあるって、今日初めて聞きました。僕はそれをもっとよく考えたいから、もう一回話してほしい」って。

 きっとその子は、これまでにもとってもよく考えてきて、とってもよくわかってるから不登校になったのかなと思いました。でも中学二年生まで、学校でマルかバツかしか聞いたことがないというのが信じられない。

――すべてに「正解」があることを前提にして、子どもたちに知識を詰め込んでいくのがいまの日本の教育だ、というお話はよく耳にします。

 学校ではマルかバツかで答えなさいと言われる。マルって言った人はよろしい、バツが正解ならバツって言った人はよろしい。その結果「マルかな、バツかな、そうじゃないこともあるよな」って一生懸命考えている子ははじかれてしまう。

 でも実際には、マルかバツかだけで世界がわかるわけないでしょう。マルかバツかでわかるのは機械の世界、そして、お月さまやお星さまの世界です。なぜ、いまここの世界のことを考えないの? そしてここの世界を考えるのに一番いいのは日常なんです。

――学問ではない?

 学問はそれのお手伝いはできます。さっき38億年と言ったのは、でたらめではなく、私が一生懸命ゲノムの研究をしてきたから言えることです。この時間のことを考えたらアリでもいい加減に殺すことはできないし、子どもにもちゃんと殺しちゃ駄目よと教えられるでしょう。

 だからと言って蚊が腕にとまったときに「これも38億年だから」と言っていると、もしかしたら悪い病気になってしまう。アフリカだったらマラリアを運んでくることもあるから、ぱちんとたたかなければいけない。この辺はやぶ蚊が多いので、私は始終たたいてます。そのときに、あなたも38億年ねって言いながらたたく。命は大切だからたたかない、ということはできない。

 だから、マルかバツかじゃないんです。それがいちばん基本的なこと。お友達との関係だってそうじゃありませんか。今日はなんだか気に入らないこと言うなって思っても、次に会ったときには楽しくお話している。そういうことでしょう? それがこの頃はヘイトスピーチだとかで、マルかバツかになってしまうのは困ったことです。

――近ごろは人間のあり方まで、単純化してしまっている気がします。

 技術はどんどん進んできましたから、遠くの方とオンラインでお話をするとか、コンピューターを使って世界を広げていくのが悪いことだとは思わない。でも、それをやってるが故に思考方法までもがマルかバツかになってしまうのは駄目でしょう。

 コンピューターの中にあるのはすべて既知のことです。でも、自然の中を少し歩いたら未知のことだらけですよ。私たちはもともと、未知の中に暮らしてるんです。

 生物学なんて、何か質問されたらほとんどがまだわかってません、ですよ。38億年前に最初の細胞が生まれた。そのことはいろんな状況証拠があるから言えますけど、じゃあ、いつどこで生まれたのかっていうのはわかってない。生きもののことはまだ99%はわかってはいません。

――そうなんですね!

 一つわかるというのは、わからないことが100出てくるってことです。10わかると、今度は1万わからなくなる。研究というのは、やればやるほどわからない世界が広がっていくんです。

 世の中の人は間違っていて、科学者は答えを出す人と思っていますでしょう? 今回の新型コロナにしても、科学者に答えを求める。でも本当は誰もわかっていないんです。それなのにわかってることを言えと求められるので、仕方なくインチキを言ったりします。わかりませんって言えばいいんです。だって、わかってないんですから。

 じゃあ、わからないのになんで科学なんてやってるんだと言われたら、私はわからないことが増えるのが楽しい。だって、全部わかってしまったら怖いでしょう? もしも自分が生まれてから死ぬときのことまでがぜんぶ書いてある本があったとしたらお読みになります?

――読まない、というか読めないですね。

 でしょう。わからないことがあるということくらい、生きてる意味はないじゃないですか。勉強するほど、わからないことは増える。3歳のときよりも1年生の方が、中学校よりも大学に入った方がわからなくなる。それを楽しいと思う人が学者になるんですけど、わからないことを大事にするのは、どの世界でも必要なのではないかと思います。今はわかってるということをあまりにも大事にし過ぎてる。

――「正解」をどれだけ知っているかで競い合っている感じですよね。

 なんでそんなことが面白いんでしょう。誰も知らないわからないことを考えている方が面白いのに。