現代社会の課題解決を求めて、歴史を探り未来に思いをはせるなら、農耕に真剣に向き合い、それをどのように進めるかを考えることが大事……というよりそこにしか解決の道はないという立場で、模索を続けてきました。
社会の見直しが必要と思う人はこのところ増えているのでしょう。さまざまな模索が行われており、その中で土への関心が高まっています。生命誌の立場からもそれが答えであろうと思っていますので、その動きには注目しています。
ただ、ここで再確認しておかなければならないのは、考えを進めるにあたり、常に「私たち生きものの中の私」という人間の立ち位置を決して忘れずにいるということです。くどいようですが、これを忘れると土の話も緑の話も技術開発につながり、拡大指向になっていきます。拡大・成長・進歩ではなく、循環や進化という言葉と共に考えなければ、自然を活かしながら80億人の食べものを生み出すこれからの農耕は成り立ちません。
支配、征服、操作を考え直す
そこで改めて確認しておきたい言葉があります。支配・征服・操作です。これまでも参考にしてきたY・N・ハラリが最近子どもに向けて人類史を書きました。そのタイトルが『Unstoppable Us: How we took over the world』なのです。訳書は『人類の物語 ヒトはこうして地球の支配者になった』です。これはシリーズの第一冊であり、1万5000年前、つまり農耕が始まる前で終わっているのですが、人間は物語をつくる能力と大勢で力を合わせるという独自の能力で、一番危険な動物になって世界を支配したとあります。
もっともハラリは現状を全面肯定しているわけではなく、「歴史から学べるのは過去だけではありません。歴史からは、ものごとがどのように変化するかを学ぶこともできます。(中略)歴史は、私たちが暮らしているこの世界が、もしかしたら違う世界になっていたかもしれないことを教えてくれます」と言っています。この連載で私が考えたいことはまさにこれです。そこでハラリの次の言葉を見るとこうあります。「この世界を今のようにしたのは人間です。そして人間はこの世界を変えることができます。もしも世界に何かひどいことがあると思えるなら、もしかしたらあなた自身の力でもっとよいものに変えることができるかもしれません」。まったく同じ気持ちでこの連載を書いてきました。
ただ一つ違うところがあります。「支配」という考え方です。「とてもよい物語を考え出せたら、君は世界を征服できるかもしれない」とハラリは言うのです。支配とか征服とかいう言葉から解放されて、「私たち生きものの中の私」、そして「私たち人類の中の私」……という私として考えれば、変える道はそれほど難しくなく見えて来るけれど、支配・征服という意識で現状を変えることはできるのだろうか。私は「いいえ」と答えます。
「手なずける」という関係性
この問題を考えるにあたっては、狩猟採集から農耕への移行の時に生まれてきたもう一つの言葉を取り上げなければなりません。私が日本人だからでしょう。農耕と言えばまず田んぼを思い、次いで畑に植えられたさまざまな作物、つまり植物を思い浮かべますが、狩猟採集から農耕への移行では、牧畜が行われるようになり、動物との関係も変わりました。「家畜化」です。ここで出てくる言葉は「手なずける」または「飼いならす」です。
動物の場合、植物と違って人間からのはたらきかけだけでなく、動物の側から人間に向けてのはたらきかけもあるところが興味深いところであり、また考えるべきことでもあります。もっとも早くから人間と関わりを持つようになったのはオオカミであり、その子孫たちが今、多くの家族で家族の一員になっているイヌであることがわかってきています。
その関わりの始まりは、オオカミが狩猟採集をしている人間の後を追って残り物をあさるようになった時だとされます。人間の近くには餌があることを知ったオオカミの中には、住居の近くをうろつき始める個体が出て来ます。人間の側は迷惑ですからもちろん追い払いますが、それでも近寄ってくるオオカミは食べものをたくさん手に入れて、子孫もたくさん残せるようになっていきます。こうして人間との関係を上手に保てる、いわゆるおとなしいオオカミが増えていったのです。そのうち、彼らが自分たちを襲ったりはしないことが充分わかってきた人間が、他の野生動物からの襲撃に対する見張り役に使えると考え始め、両方が相手を求めるようになったのです。
聴覚も嗅覚も人間より優れているオオカミは役に立ちます。狩猟採集生活者もだんだん定住を始め、その頃から従順なオオカミと人間の関係は更に深くなり、農耕が始まる頃には「ヴィレッジドッグ」と呼ばれる存在となったとされます。ヴィレッジドッグは現在のイヌのようなペットでもなければ、狩りに役立てたわけでもない存在でしたが、オオカミのような群れを作ることはなく、人間の生活圏の周囲にいて、個体数を増やしていきました。
イヌの系統樹を描くと、パレスチナからアフガニスタンに広がる西アジア、中国と日本を代表する東アジア、そして北アジアの三地域で生まれています。柴犬と秋田犬は古代種と呼ばれ、狩猟犬として人間と長い間つき合ってきた仲間です。もっとも今私たちがイヌと呼ぶ仲間は19世紀になってつくり出されたもので、これが本当にオオカミとつながっているのだろうかと思う品種がたくさんいます。毎日我が家の前をお散歩するテリアやスパニエルやチワワを見ると、まさに人間の思いのままにつくり出された作品に見えます。大品種改良の結果生み出されたペットは見るからに可愛く、今やどちらが主人かわからない関係にまでなっていますが、それらもオオカミの子孫であることはゲノム解析が明らかにしています。
このようにして始まった動物との関わりは広がり、家畜(食べものにもなる)やペットは私たちの暮らしに不可欠な存在になりました。ウシ、ブタ、ウマ、ヒツジ、ヤギなどの他、限られた地域で活躍するトナカイやラクダ、ペットとして生活に深く入り込んでいるネコなど、それぞれの生きものと人間との関わりの生まれ方は、一つ一つ興味深いものがあります。今後、折に触れて取り上げることになると思いますが、ここは人間と動物との間に「手なずける」という人類史上新しい関係が生まれたことに注目したいと思います。
「手なずける」対象の拡大
狩猟採集から農耕への移行では、もちろん植物も「手なずける」対象です。野生のコムギもオオムギも小粒で、自然に落ちる、つまり脱粒する性質をもっていますから、そのままでは主食の材料にはなりません。脱粒しない大粒の種子をつける株が選ばれてきたのですが、動物の場合のような相互作用は感じられません。ただ動物の家畜化の過程で、自分たちに都合のよい性質を選んでいくことで「手なずけ感」を味わった人々は、植物に対してもその感覚をもつようになっていったでしょう。よしよし思い通りになったぞという満足感です。
本格的な農耕社会になれば、生活の基本は現代風の表現をするなら動植物の生命操作の上に成り立ちます。ところで興味深いことに、手なずけた結果、終日種まきや水やりなどの作業や家畜の管理に長い時間を費やすことになったのです。私としては、自由時間が減っているのではありませんかと問いたくなりますが、思い通りにしようという気持ちの方が強かったのでしょう。種まきをして作物がよく育つように土地を拓いたり、水路をつくるなどもしましたから、手なずける対象は自然全体へと広がります。「自然を手なずける」という感覚が、人間の中に生まれます。
更に、働けばより多くの食べものが手に入るという思いが生まれたことも重要です。狩猟採集の時代は、獲物が得られればありがたくいただき、また必要になれば獲りに行くという暮らし方でした。必要なものが必要な時に必要なだけ手に入ることが、生活の基本だったのです。自然についての知識も充分あり、自然の中で上手に暮らす知恵は、恐らく私たち現代人より優れていたに違いありません。必要なものが手に入れば、後の時間はおしゃべりや音楽など、さまざまな楽しみに使っていたと思われます。その中で植物や動物はもちろん自然界そのものに自分とのつながりを感じる、いわゆるアニミズムの世界での物語も生まれたでしょう(アニミズムについては、16回を参照して下さい)。
農耕生活に入った私たちの祖先は、「自然を手なずける」という感覚をもち、「必要なだけ手に入れるのではなく生産量を増やすことを求める」ことを始めました。食糧が増えることが誰もがよりよい生活をする──食生活を楽しみ、余暇を充実させる──ことにつながったかと言えば、そうはならなかったことを歴史は示しています。この問題は次に扱いますが、人口爆発が起きて、それを支えるために働かなければならなくなったうえに、階級が生まれて、特別な人たちだけが食べることを楽しむ社会になっていったのです。
自然を手なずけるという感覚は、「人を手なずける」ことにもつながります。集団を構成する人数が多くなると、人間同士の関係がフラットでなくなり、人間に対しても支配や操作の感覚が生まれるのです。
自然の持つ力に手を添える
「手なずける」という行為が動植物から自然全体へ、そして人間にまで及ぶ社会ができ上がっていく様子を追いました。狩猟採集から農耕への移行は、定住生活の始まりにより、他の野生動物とは異なる人間(ホモ・サピエンス)独自の生活の始まりであり、従来、野蛮から文明へのすばらしい転換として評価されてきました。けれどもここで支配・操作・拡大・階級などという、生命誌の立場で見ると現代社会のもつ問題点とせざるを得ないことがすべて始まっているのです。人間のもつ独自の能力を活かした生き方を求めるのは当然ですが、その具体化が支配・操作・拡大・階級などにつながったという事実の前で考え込みます。私たちの歩く道はこれだけだったのでしょうか。
生命誌が今明らかにしている事実を踏まえると、別の道があるに違いないと思えます。そこで、生命誌を知ったうえで農耕生活に入ったらどんな形を取っただろうかという問いを立てて考えているわけです。自然にあるがままに止まるのではなく、自ら考えてよりよいものを求めて新しい生き方を探りたいですし、それをせずにはいられないのが人間でしょう。けれどもそこで、時に自然の大きさを受け入れ、時に一つ一つの生きものへの愛おしさを感じることが大事です。自然の一部である自身を大事にしながら、しかも謙虚さを失わない生き方を基本に置いて、社会のしくみを考えられるのではないかと考えています。支配・操作ではなく、自然の持つ力に手を添えるという関わり方を考えたいのです。
ロシアのウクライナ侵攻とその関連で起きている世界各国の動きを見ていると、この思いが更に強くなります。権力や経済力のみが力であるかのように動く相変わらずの拡大指向の結果、子どもたちが未来に夢を抱けない社会を生み出しているのですから、これが賢い選択とは思えません。農耕にまで戻って本質を考え、賢い生き方を見つけよう。ここ数回考えてきたことです。
最後に一言、第8回でワンちゃんのことを書きました。今回とりあげたイヌと第8回を比較しながら読んでいただくと、今考えたいことの一面が見えてくると思います。