木村さん、中村さんからバトンを受け取って、書きはじめています。バトンリレー形式の書き物は初めてです。私が何かを書くとき、一番多いのは、単発の論文を書くというものです。フィールド調査だったり、理論研究だったり、何か主題を決めて、それについて原稿用紙50枚ほどで書く。それを学術雑誌に投稿したり、論集のなかのひとつの章に入れてもらって刊行します。論文以外だと、私は先日まで、『現代思想』(青土社)という雑誌で連載を執筆していました。

 バトンリレーは、論文とも連載とも違って、他の書き手がすでに作業を開始しています。今回でいえば、木村さんと中村さんのエッセーを受けて、では自分のターンをどうするかを考えています。すでに列車は動いている。その動く列車に、どう乗り込んで、次の中継駅まで列車を運転するのか。これは論文とは違います。論文の場合、列車は止まっているのですから。それをみずから始動させなければなりません。白紙に一から書き始めることほど、エネルギーを要することはありません。でも、今回は、すでに木村さんと中村さんが紡いだ文字が自分にまで到来している。その到来の軌跡に、私なりに身を任せながら、バトンリレーに加わりたいと思います。

 今回の記事で私は、木村さんや中村さんとは異なり、「ですます調」で記そうと思います。違ったリズムを挟んでみようと思ったからです。また、木村さん、中村さんと同様に、自らの調査経験の振り返りをおこないますが、調査「経験」というよりは調査「形態」に焦点を当てたいと思います。具体的には、移動中の車内の会話という「形態」を取り上げます。

車中のやりとり

 私は、フィリピン・マニラを主な調査地として、フィールドワークをおこなってきました。ボクシングジムで住み込み調査を実施し、また、スラムの家族の強制的立ち退きの影響について聞き取りをおこなってきました。長年、マニラに通っていると、現地にはそれなりの数の友人・知人ができ、かれらの車に乗せてもらって移動することも多くなります。

 たとえば、ボクシングジムのオーナーであるマーティーは、日曜日にボクサーたちを連れて、マニラのジムから120キロメートルほど離れた田舎のビーチによく行っていました。そのビーチはとても良い場所でした。まず、地元の人しか知らず、観光地にはなっていない点です。いつも空いていて、私たちはビーチを独占して遊ぶことができました。また、お金もあまりかかりません。入場料が取られるわけでもなく、車もそこら辺の空きスペースに止めておけばよい。道中にお腹が減れば、農家が路上で売っている茹でたトウモロコシを食べました。また、ビーチで一泊する際には、安いコテージを一棟借りて、地元の市場で魚を買ってきて、それを塩焼きにして食べました。私にとっては、ショッピングモールで映画を観るよりも、こうした地元ビーチへの小旅行の方がよっぽど心躍るものでした。

マーティーとボクサーと一緒にビーチに行く(真ん中に座るのがマーティー)
貸し切り状態のビーチ

 ビーチへの移動は、私にとって、別の点においても楽しみな時間でもありました。マーティーのバンタイプの車では、私はいつも助手席に座っていました。彼は、日本から来た大学院生の私のことを気にかけてくれて、とてもよく面倒を見てくれました。そして移動の際には、私をいつも助手席に座らせてくれたのです。

 移動中の車内で、マーティーと私は、いろんな雑談をしました。高速道路を走っているとき、マーティーは大きなビルボードを指差しながら「トモ、日本にはこんな大きな広告板があるか?LA(ロサンゼルス)にはもっと大きいのがある」と話をしてきます。若い女性が通りを歩いているのを見ると、かつての所属ボクサーがガールフレンドとの関係に溺れてボクサーとしては潰れていった逸話を切り出します。そうかと思うと、いきなり「社会学って何なんだ?ビジネスじゃないんだろ?」と質問をしてきたりします。私が一生懸命に社会学について説明していると、話を遮って「トモ、フィリピーノ・ドライバーがいる」と言って、車道から路肩に車線変更してそのままショートカットで右折しようとする別の車の運転手を指差しながら笑います。しばらくすると、マーティーが若い頃、大学を辞めて、教科書の類をすべて路上の古本屋に売った逸話が登場します。

 私は、移動中の車内でのこうした会話が大好きでした。面と向かって、レコーダーを回しながらインタビューをすることも必要ですが、同時に、運転席と助手席という配置だからこそ、気楽に話すことのできる会話というものがあります。「向かい合う関係」ではなく「並び合う関係」。集中した聞き取りではなく運転中の会話。あくまで運転がメインであって、そのお供として会話があるような空間。「ながら会話」と呼べるかもしれません。運転しながらの会話、あるいは洗濯をしながらの会話。

 私が『ローカルボクサーと貧困世界』(2012年、増補版を2023年に刊行予定)という本を書いたとき、そのなかの一章分(第4章)を使って、ボクシングマーケットの仕組みについて記しました。試合がどのように組まれ、ファイトマネーがいかなる方法で支払われ、国際的なマッチメイカーとのつながりがどの場面で形成されるのかを説明しました。そこで書いた内容の中心は、実は、マーティーとのこうした車内での会話を通じて教わったことでした。なぜフィリピンのボクサーは、国際的なボクシングマーケットで「噛ませ犬」役を強いられるのか。どのようにファイトマネーの一部が、海外のマッチメイカーによって「抜かれる」のか。

 もちろん、マーティーとの会話をそのまま本で書いたわけではありません。私は、フィリピンのボクシング協会に何度も行き、さらに現地の大学図書館で出稼ぎに関する統計データなども集めながら、実証的に、噛ませ犬フィリピン人ボクサーが海外に送り出されるメカニズムを論じました。しかし重要なのは、その章のアイデアの供給源は、マーティーとの雑談だった点です。それを通じて、私はマーティー流のものの考え方、ものの見え方に触れることになりました。その考え方や見え方に触れていたからこそ、私は、フィリピンのボクシングを「敗者の生産」という視座から考察しようと思い立ったのです。

 あるときは、所属ボクサーの評価についても、車内で話題になったことがあります。あのときは、ビーチではなく、どこか別のところに行っていました(思い出せません)。深夜にマニラまで戻る道中で、バンの後ろにいるボクサーたちは眠っていました。マーティーは、フィリピンの暗い田舎道を、ライトをハイビームにして運転しています。野良犬が出てくると、クラクションを鳴らして、犬にこちらの存在を知らせました。田舎では、道路はアスファルトではなく、コンクリート舗装です。

 静まった車内で、車のヘッドライトだけが前方に照らされている状況の中、マーティーは所属ボクサーのアレックスの最近の試合ぶりについて、私に語り出しました。アレックスは当時フィリピンの国内チャンピオンで、もうすぐ東洋太平洋の王座にも手が届きそうでした。そんなアレックスについて、防御がガードのみになりがちで、カウンターの手が出ないことを、マーティーは不満気に話しました。アレックスは、もともとはメンタルが弱く、本番のリングでは力が出せないことが多かったが、最近はそれを克服しつつある。アレックスには妻子がいて、ボクサーが家族を経済面で養うことは難しい。その夜の車中では、なぜかアレックスについて、マーティーはたくさん話をしました。

 私は、マーティーにはアレックスがそのように見えているのだ、ということを知りました。マーティーによるアレックスの評価については、論文や本に書くような内容でもなく、車中の会話の一コマとして記憶されているだけにすぎません。しかしエスノグラファーというのは、何気ない会話や情報――マーティーのアレックス評――なども心に留めながら、その世界のダイナミズムに迫ろうとしているのだと思います。

 移動中の車内での会話は、本格的な聞き取りとはほど遠い、飾りのようなものでしかないでしょう。しかしそうした飾りを、何気なく耳にしつづける中で、だんだんと私自身のものの考え方や見え方が旋回されていったように思います。

 思えば、私は若い頃から、誰かに付いていくことが好きでした。指導教員の調査地である東北の農山村、友人と訪れた卵農家、先輩に連れていってもらった釣り。もちろん、目的地に到着して目的としていること――田植えの援農だったり、にわとりを屠(ほふ)ることであったり、ハゼの釣りだったり――をおこなうのがねらいなのですが、しかし同時に私は「道中」の時間が好きでした。目的地だけでなく、その道中での出来事が印象に残るのです。フィリピンにいるときも、フィールドで出会った友人から遠方に行くと誘われたときは、私は喜んで同行しました。その道中の会話を通じて、私のフィールド理解も変化することを実感したからでした。

ドライブ・マイ・カー

 「あのときのフィールドノート」というバトンリレー形式のこの記事で、私は車中の会話という調査「形態」に光を当てて、ここまで書いてきました。なぜ車中の会話について書こうと思ったかというと、先日、といっても3ヶ月ほど前ですが、講義をするために二週間ほど訪れたスロベニアで、車中の会話をめぐって思索する機会があったからです。スロベニアでの滞在中、私はその滞在の受け入れ役を担ってくれた社会学者のブチャ=ルチマンと一緒に、リュブリャナ(スロベニアの首都)からサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)まで片道7時間かけて車で移動しました。サラエボに行ったのは、現地の難民支援のNGOと国連難民高等弁務官事務所を訪問するためでした。

 車で行ったのは正解でした。途中、休憩して、村のパン屋さんでブレックを食べたり、農村の家や井戸の形状を見ることができました。なにより、ブチャ=ルチマンとたくさんの雑談をしました。ユーゴ軍の戦車がスロベニアの独立を阻止するために攻め込んできた光景、クロアチアのテレビドラマを観ているとテロップで防空壕に避難を呼びかけることが流れた記憶。そうした車中での雑談を通じて、私はほんの少しだけ、ユーゴスラビアの複雑な歴史の一端を思い描くことができるようになったと思います。

サラエボで車内から見た夕焼け

 サラエボ訪問から逆照射して、私のマニラでのフィールドワークを振り返るならば、実はマニラでも私は車内での会話から多くを学んできたことを再発見しました。「あのときのフィールドノート」と言うときの「あのとき」は、確固として在るものではなく、「いま」との関係において時々で意味をもって現れるものなのかもしれません。