想起と目覚めからの歴史
ベンヤミンは、こうしてファシズムが映画などの技術的な手段を駆使して民族の神話を流布させるのに抗して映画をはじめとする芸術を、その技術の時代における可能性へ向けて見つめ直そうとしていたわけですが、それと同時に歴史を、技術の力にさらされた者の側から捉える可能性も探っていました。「技術的複製可能性の時代の芸術作品」が書かれた頃、彼はパリのパサージュ(=19世紀前半から造られたガラス天井のアーケード街)から、近代の歴史を根源から捉え返す仕事に取り組んでいます。未完に終わった『パサージュ論』は、近代の技術的な「進歩」の過程で捨て去られたものに潜む潰(つい)えた希望を掘り起こし、神話としての「歴史」が抑圧してきたその記憶を配置することによって近代の「根源史」を描き出し、ありえた可能性への目覚めを導くはずでした。
そのような『パサージュ論』へ向けて、ベンヤミンの歴史の概念に対する問題意識が、とくに1933年にパリへ亡命した後に深まっていくことになりますが、彼の歴史への問いは、先に紹介した言語論が書かれた第一次世界大戦中の著述からもかいま見えます。それが最初に明確な形を取るのは1920年頃です。そのきっかけになったのが、1918から翌年にかけて起きたドイツ革命とその挫折でした。その経緯を確認しておきますと、第一次世界大戦末期の1918年11月3日に、キール軍港で海軍兵士が反乱を起こしたのをきっかけに始まった革命は、皇帝ヴィルヘルム二世を退位に追い込み、戦争を終結させました。しかし、労働者らの代表による評議会を主体とする共和国の建設を求める勢力は、旧勢力と結託した臨時政府によって弾圧されることになります。
ベルリンでのスパルタクス団の蜂起は、後にナチスの武装組織を構成する人々を中心とする「義勇軍」によって鎮圧され、指導者のリープクネヒトとルクセンブルクは、捕らえられて虐殺されました。そこに至る過程を見届けたベンヤミンは、1921年に発表した「暴力批判論」のなかで、社会の法的な秩序が暴力の上に成り立っているという認識を示しています。法律には拘束力がありますが、それは突き詰めれば、国家が権力を打ち立て、維持しようとするところに働く暴力にもとづいているというわけです。彼はこの暴力を、人々に権力のための犠牲を強いる「神話的暴力」と呼び、それが断ち切られるところに新たな歴史の始まりを見ようとしています。このように救済とも結びついた歴史への問題意識が、亡命後には歴史認識の方法の探究とも結びつくことになります。
亡命先のパリで書き継がれた『パサージュ論』のための覚え書きを見ると、ベンヤミンが、「進歩」の過程にさらされた者の身体的でもある経験から、歴史認識を考えようとしていることが分かります。彼は、恣意的でない想起の経験から、歴史が新たに捉えられると考えていたのです。そのとき彼の念頭にあったのが、プルーストの『失われた時を求めて』における「無意志的記憶」です。ベンヤミンは友人と協力して、この長編小説の一部をドイツ語へ翻訳していました。そこに描かれる、ふとしたきっかけで過去がよみがえってくる出来事が、現在の都市空間、すなわち近代の歴史が積み重なっている場所に生きている者の身にも起きるというのです。確かに、そこで「進歩」のなかで捨てられたものの破片や歴史の爪痕に触れると、否応なく過去に向き合わされます。
このとき、過去と現在が時の隔たりを越えて直結し、未だ「歴史」に記されたことのない記憶に直面することになります。そのような想起の瞬間を言葉で捉えることに歴史がかかっているとベンヤミンは述べています。そして、そのことを彼は引用になぞらえます。引用するとは、ある言葉を元の文脈から引き剝がして取り出すことですが、そのような引用の破壊性にも彼は着目しています。「歴史を書くとは、歴史を引用することである」と彼は述べていますが、それは過ぎ去った出来事の記憶を、神話と化した「歴史」による忘却ないし抹殺に抗して取り出してくることにほかなりません。このとき、「歴史」のひと続きの物語も壊されることになります。それをつうじて抑圧されてきた記憶を言葉にして歴史を認識するとは、神話から目覚めることでもあります。
過去の瓦礫を目の当たりにするとき、これまで神話によって美化されてきた──そのことが最新の技術によって今も続いていることは言うまでもありません──現在の空間は色あせ、一面の廃墟と化します。その瞬間を言葉で捕まえるとは同時に、「進歩」と見なされてきた過程を、破局に次ぐ破局が貫いていることを見抜くことでもあります。ベンヤミンは、実質的に最後の著作となった「歴史の概念について」のテーゼの一つに、歴史認識の寓意でもある「歴史の天使」を描いていますが、この天使は、人がひと続きの「歴史」を見るところに、不断の破局を見届けています。同時に天使は、瓦礫を継ぎ合わせ、死者を呼び出そうとするわけですが、ベンヤミンが考える歴史認識とは、神話からの覚醒とともに、このような過去の救出を試みるものと言えるでしょう。
それが恣意的でない想起と過去の引用によって行なわれるわけですが、ベンヤミンは、引用という語に「呼び出す」という意味が含まれていることにも注意を払っています。つまり、歴史を認識するとは、過ぎ去った出来事を、それに巻き込まれた死者を、その名で呼び、抑圧されてきたその記憶を呼び起こすことなのです。このとき言語に、名を呼ぶ言葉の肯定性と創造性が取り戻されるにちがいありません。言葉に過去がよみがえり、死者の苦悩が反響するのです。このとき言葉は、「過去の真の像」として語り出されているとベンヤミンは述べています。今や歴史は、この「像」としての言葉を媒体として、非連続的に構成されるのです。そして、記憶の「像」が星座をなすように配置されるとき、その記憶を消し去ってきた「歴史」の総体が見返されることになります。
このようにして地を這うものたちの側から歴史を記すとは、その記憶を神話としての「歴史」から解き放つこと──それが真の救済に通じているとベンヤミンは考えていました──であると同時に、神話の支配に抵抗することでもあります。「歴史」によって忘れられた過去の記憶を一つひとつ呼び起こすとは、真実を追究することであるばかりでなく、死者と連帯しながら、神話の犠牲にされることなく生きることに踏みとどまることでもあるのです。ベンヤミンは、ファシズムの暴力がわが身に迫るなか、死者たちの潰えた希望を、「歴史」の破壊をつうじて掘り起こしながら、神話への抵抗であるほかない生の道筋を切り開くような歴史の可能性を探究していました。彼は「過去の像」としての言葉で、パリのパサージュから近代の「根源史」を書こうとしていたのです。
「日本の近代化」神話
しかし、ベンヤミンはその仕事を中断せざるをえませんでした。第二次世界大戦の緒戦でフランスがナチス・ドイツに敗れてしまったため、ヒトラーの軍隊が迫ってきたのです。ベンヤミンは、当時国立図書館の司書だったバタイユに『パサージュ論』などの草稿を託して南仏へ逃れます。そして、マルセイユで「歴史の概念について」のテーゼの手書きの草稿をアーレントに渡した後、徒歩でピレネー山脈を越えてスペインに入り、リスボンからアメリカへ渡ろうと試みますが、スペインの当局に入国を拒まれてしまいます。絶望したベンヤミンは、致死量を超えるモルヒネを嚥(の)んで自殺しました。それからすでに80年を超える月日が経ちましたが、彼が戦争とファシズムの時代に対決した神話は、日本列島でも人々を眠らせながら、その生を犠牲にし続けています。
明治の初めから新たに建設されたり、本格的に稼働し始めたりした炭鉱、製鉄所、製糸工場、造船所などを「日本の近代化遺産」として称揚する動きが、前世紀の末から活発になっています。2015年には、日本の短期間での工業化を物語る23か所が、「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に指定されました。しかし、その一つで「軍艦島」の名で知られる長崎県の端島(はしま)の炭鉱に関しては、その説明が強制労働を隠蔽している点が国際的に問題視されています。そのことが示すように、「日本の近代化」を顕彰する物語は、その「遺産」が朝鮮半島や中国から来た人々を含む、多くの無名の人々の血を絞って稼働してきたことを不問にしようとしているのです。「近代化遺産」を観光し、その神話を消費するなら、神話の支配にみずから組み込まれることになります。
実際にあまりにも急速だった「日本の近代化」の神話の支配は、現在も資本の増殖のために、人々の命をどこまでも絞り取ろうとしています。それが続くなか、生物の環境が取り返しのつかないかたちで破壊されていることも露呈しています。このことにさらされるなか、「近代化」の犠牲にされた者の生の足跡に触れ、その沈黙に向き合うなら、いったん立ち止まって、危機的な現在を、抑圧されてきた過去の記憶から照らし出すきっかけが得られるはずです。そして、この瞬間を言葉で捉え、歴史になったことのない記憶を呼び起こすなら、「国語」として学ぶことで見失っていた言葉の力を、過去との時を越えた出会いのなかで見いだすこともできるのではないでしょうか。このような可能性を、危機の時代に繰り広げられたベンヤミンの思考は、今に語りかけています。
※本稿は『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答を再構成したものです。