――先生は『ポスト資本主義』(岩波書店)という本を書かれていますけど、近代以降の社会やコミュニティに資本主義が与えた影響といいますか。資本主義が浸透していくにつれて伝統的なコミュニティが解体され、バラバラになった個人が私利私欲を追求するようになっていったというお話はこれまでにもお聞きしてきたのですが、資本主義とコミュニティの関係性について改めて教えていただけますか。
これはまた非常に重要なテーマで、さっきまでの話とも当然つながってきますけど、今言われたことに関しては「公」と「私」と「共」という言葉で整理できると思うんですね。「公」は公共で、「私」はいわゆる市場経済、「共」はコミュニティです。
資本主義と近代社会というのは重なる部分が大きいと思うんですけど、その資本主義とか近代社会というのは「公」と「私」の二元論なんですね。中でも中心になるのは「私」の方で、市場経済によって企業がどんどん利益を上げていく。資本主義はそうやって拡大していったわけですけど、やがて劣悪な労働条件や格差による貧困といった問題が出てきたので、それを「公」――この場合は狭い意味になりますが――、つまり国家が調整するようになった。
この「公」と「私」の二元論というのは、言い換えると、資本主義以前、近代以前の農耕社会で中心だったコミュニティ、すなわち「共」の領域がどんどんわきに追いやられ、忘れ去られてきたということです。ところが、資本主義社会になって時が経てば経つほど、格差の問題も環境問題もにっちもさっちもいかなくなり、今になって、もう一度この「共」の領域を見直そうという動きが出てきているということだと思います。
――なるほど。近代の国民国家はフランス革命をきっかけに確立されていったわけですが、国家とコミュニティの関係についてはどのようなことが言えますか。
そうですね。これにはいくつか話が錯綜してくる部分がありますが、国家というのは近代の国民国家だけではなく、古代にさかのぼればローマ帝国とか、中国の古代国家、秦とか漢といったものもあったわけです。
先ほど、農耕が始まり、人口や経済が大きくなっていく過程で都市が生まれたという話をしましたが、こうした古代の帝国は都市と不可分な存在でした。どういうことかというと、日本でも古代からムラとクニがあるように、個々の村を超えた交流によって都市が生まれ、今度はいくつかの村や都市を統合する存在として国というのが出てくる。
――邪馬台国とか?
ですね。話が少しややこしくなりますが、私は国家というものにはまったく異なる二つの姿があると思っていて、一つは今の話とつながる大きな共同体としての国家。つまり家族があって、村があって、それをもっと大きくしていったところにある国家です。
――いわゆる「八紘一宇」的なイメージですね。
そうですね。これは明治以降に強くなっていきます。江戸時代にも幕府というのがあったわけですが、司馬遼太郎なんかもよく書いてますけど、江戸時代の人は「あなたは日本人ですか」と聞かれてもぴんとこなかっただろうと。「自分は薩摩人」だとか「会津人だ」とは思っていても、日本人という意識はほぼなかったでしょう。それが明治以降、西洋列強に対抗するため、諸々の政策によって、大きな共同体としての国家という意識が非常に強くなっていった。そしてこれがナショナリズムへとつながっていきます。
もう一つは、公共性の担い手としての国家。これがさっきの都市型コミュニティや近代国家と関係しているんですけど、まずは個人というものを認める。ただ、それぞれの個人が好き勝手に行動するだけでは格差や貧困の問題が出てくるので、それを是正するものとして国家を考える。つまり、公共的な問題を解決する「装置」としての国家です。
日本人は一つめの、大きな共同体としての国家は理解しやすいと思うんですね。でも二つめの、公共性の担い手としての国家という意識は非常に持ちにくいというか、イメージしづらい。さっきの、「税金はみんなが支え合うためのものだ」というのがまさにそれなんですけど、そういう感覚は非常に薄い。
――私も、税金=年貢みたいに捉えている人が多いなというのは常々感じています。
国家は人びとから税金を集めてそれを再分配するだけなんですけど、国家という大きな実体があり、そこがお金を持っていていろんな問題を解決してくれる、みたいな感覚なんですよね。
――すごくよくわかります。今回のコロナの特別給付金にしても、なぜか「国がくれる」みたいな認識なんですよね。いやいや、自分が納めた税金でしょって思うんですけど。
これはさっきの公共性の話や、政治への関心が薄いといったこととも全部つながっていて、日本社会の根源的な問題だと思います。
成熟か成長か
――『ポスト資本主義』の中では、近代科学と資本主義の関連性についても書かれていますよね。
その話題を出していただいたのはとても良かったです。近代科学と資本主義というのは車の両輪というか、表裏一体という面があって、この両者が前提とする世界観はかなり共通しているんですね。
ポイントは二つあって、一つは個と全体の関係が要素還元主義的であること。近代科学は、すべての物質は原子という要素で構成されており、あらゆる自然現象はこの原子の連関や運動に還元して理解することができる、というものです。一方の資本主義も個人がすべてというか、有名なイギリスのサッチャー首相は「社会などというものは存在しない、個人があるだけだ」と言ったそうですが、まさに個人という要素から社会というものを捉えるわけです。
それからもう一つは人間と自然の関係性。自然を人間から切り離してコントロールするというのが近代科学の世界観ですし、資本主義というのは自然からエネルギーを搾り取って経済発展していくという仕組みですから、これも共通しています。
――なるほど。
先ほど、資本主義の発展によってわきに追いやられたコミュニティの重要性が今あらためて浮かび上がっている、という話をしましたが、面白いことに、科学の領域でも今コミュニティや関係性といったものに非常に関心が集まっています。
たとえば、脳科学の領域にはソーシャルブレイン、社会脳という考え方があって、人間の脳は社会性の発達と並行して進化していったというんですね。近代科学というのは個人とか個体を中心に世界を考えるんですけど、実は人間の脳は、他者とのコミュニケーションやコミュニティ的なやりとりがあったからこそ大きく発達したという議論です。
――ミラーニューロンとか?
まさにそうです。それからこれは社会科学の領域ですけど、他者との関係性やコミュニティのあり方が人間にとって非常に大きな意味を持つというソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の議論であったり、ニューロエコノミクス(神経経済学)では、オキシトシンという愛情に関わる脳内物質が人間に多幸感をもたらす――これは多少アメリカ的な偏りがあると思いますが――といったことが言われています。
つまり人間は個人、個体でできているのではなく、他者とのつながり、利他性、協調性といったものこそが本質的なんだということを論じる研究が、文系理系を問わず、ここ10年20年でわっと起きつつあるんです。
――資本主義と近代科学は車の両輪だからこそ、資本主義が行き詰まりを見せ始めたタイミングで、科学の方でも従来の世界観が見直されるようになったんですね。
その点をもう少し突っ込んで考えると、私は地球環境の限界にぶつかったからというのがあると思うんですね。地球の資源が無限に消費できるのであれば、世界中の個人が自分の利益を追求し続けてもそれほど問題はない。でも実際にはもちろん資源は限られているわけですから、その中でいかに共存していくかということが課題となり、コミュニティというテーマが浮かび上がってきているということではないかと思います。
――逆に言うと、イーロン・マスクが言っているように人類が火星に移住するとか、地球と同じような星が2、3個見つかって資源の心配がなくなったら、これまでの狩猟採集、農耕、産業化に続く第4の拡大成長がはじまるかもしれない。
その通りです。コミュニティの再構築ではなく、第4の拡大成長を目指す方向というのは、まさに今言われた地球脱出だとか、アメリカの未来学者 カーツ・ワイルが展開しているシンギュラリティ(=AIが人間を超える知能を持つこと)や最高度に発達したAIと改造された人間が結びつくポストヒューマンといった議論です。
ただ、私は、人間がそれで幸福を得られるとは思えないので、やはりコミュニティを軸とした持続可能性の方に軸足を移していくのではないかと思っています。
――イーロン・マスクにしてもカーツ・ワイルにしても、そういった議論が資本主義の「権化」であるアメリカで出てくるっていうのが示唆的ですよね。
それからユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』ですね。あれも人間が神になるみたいな話なので、ユダヤ・キリスト教的であり、彼自身はイスラエル出身ですが、アメリカ的な世界観が非常に強く働いていると思います。