光の神、アフラ・マズダー
前回は、仏教における月の光と闇との対比という話でした。ただ、光と闇と言えば、これを基本とする宗教は仏教ではなく、ゾロアスター教です。
ゾロアスター教については不明なことばかりですが、開祖のザラスシュトラが紀元前1000年頃に中央アジアに実在しており、特殊な東イラン語で「ガーサー」と呼ばれる詩文を口述し、教団を組織し始めたことは事実のようです。ザラスシュトラは、当時のイラン世界でアフラと呼ばれていた神々のうち、アフラ・マズダーこそが宇宙に秩序をもたらした神として崇拝すべきだと説いたと推測されています。一方、ダエーヴァと呼ばれる神たちは、その地位が下げられていき、悪魔とみなされるようになりました。
ゾロアスター教は中近東に広まっていくうちに、教義が整備され、この世界は光明の神であるアフラ・マズダーと、闇の世界を代表し、ダエーヴァたちを統括するアンラ・マンユの軍団の争いの舞台とされるようになったようです。そして、敬虔な信者は、毎日、「私はアフラ・マズダーをあがめ、ダエーヴァどもを呪う」と唱えたのです。
自動車メーカーのマツダがアメリカ進出する際、ローマ字表記を MATSUDA とすると、アメリカ人は「マッサーダ」などと発音してしまううえ、6字ではバランスが悪いということで、このアフラ・マズダー(Ahura Mazdā)にならい、MAZDA という力強い感じの表記にしてヒットしたことは有名ですね。
イランとインドの近縁関係
ところで、ゾロアスター教が成立した地とされるイランときわめて近い関係にあったのがインドです。近代に発達した言語学の研究の結果、太古にはインド・ヨーロッパ祖語という言語が存在し、これがアナトリア語系、インド・イラン語系、トカラ語系、ギリシャ語系、イタリック語系、ケルト語系、ゲルマン語系、バルト・スラブ語系その他に分かれたことがわかってきました。つまり、シルクロードから西の諸民族の言語は、皆な共通の祖語から分かれたことが明らかになったのです。
そのうちでも、インド・イラン語系という言葉が示すように、この二つの文化圏はきわめて近しい関係にありました。ただ、分かれていくうちに、同じ語源に基づく言葉が反対の意味になる場合も出てきました。その典型的な例が、ササン朝ペルシャでは国教となったゾロアスター教の至高神、アフラ・マズダーを含めたアフラたちが、インド仏教では神々に戦いを挑み続ける悪鬼のアスラ(阿修羅)となったこと、そして悪魔のダエーヴァが、インドでは帝釈天・梵天・大黒天・弁財天など、信仰を集める天(神)を意味するデーヴァとなったことです。
日本でもお馴染みの阿修羅は、むろんインド神話のアスラが仏教に取り込まれたものです。ただ、ヴェーダ聖典の中で最も早く成立した『リグ・ヴェーダ』は、言葉がゾロアスター教の最古の聖典である『アヴェスター』にきわめて似ているうえ、アスラはまだ鬼神ではなく、高位の神として描かれていました。時代が下り、様々な神がデーヴァとして尊重されるようになるにつれ、アスラの地位が低下し、しまいには神と敵対する鬼神・悪魔となったのであって、それが仏教に取り込まれたのです。
このため、芝居や講談などで戦いの場面を「修羅場」と呼ぶことが示すように、阿修羅には戦いつづけてやまない血なまぐさいイメージがあります。実際、寺院に安置される阿修羅像にはは、武器を持って憤怒の表情をしているものが多いのです。
興福寺の阿修羅像
ところが、最近の若い人の間では、そうしたイメージはほとんどないようです。これは、教科書などによく写真が載っている興福寺の阿修羅像は、三面六譬の異形ながら、愁いを帯びた少年のような表情によって人気が高いためでしょう。
この阿修羅像は細身であって、武器を手にしておらず、しかも胸のところで両手を合わせて合掌しています。つまり、血なまぐさい戦いの鬼神とは正反対の姿をしているのです。なぜ、こうした姿をしているのか。
阿修羅像が安置された興福寺の中金堂は、焼失と再建が繰り返されており、現在の建物は江戸時代に縮小された形で再建されたものです。それが平成12年に解体され、30年に創建当時の大きさで再建された際、阿修羅像についても精密な調査がなされました。
その調査の報告は、興福寺監修『阿修羅像のひみつ』(朝日新聞出版)として2018年に刊行されました。それによると、阿修羅像は、実は右腕の肘の途中から先が失われており、現在の阿修羅像は、後世に別材で腕を作って補正してあり、右手は正面から少し左にずれた位置で合掌する形になっています。このため、制作当時は合掌しておらず、一番前の手も他の手と同様に手のひらを上に向けて何かの持物を捧げているのではないか、という説もありました。
ところが調査の結果、やはり合掌していたことが明らかになったのです。ではなぜ戦わずにおれない阿修羅が合掌しているのか。その謎を解く鍵は、中金堂の本尊の前に置かれている国宝の金鼓(こんく)にありました。護国経典として重視された『金光明最勝王経』では、ある菩薩が金鼓が打ち鳴らされる音を聞いて懺悔の心を起こしたとされており、その時の聴衆の中に阿修羅を含む天龍八部衆がいたと記されていたのです。
となると、合掌する阿修羅像は、この金鼓が打ち鳴らされる音を聞き、戦いをやめて仏教に帰依した様子を表していることになります。これは、インド・中国・韓国などの仏教信者が思い浮かべる阿修羅像とは大変な違いです。
阿修羅像の調査結果
さらに調査結果で面白いのは、阿修羅像の現在の三つの顔の内側に、原型の顔が隠されており、しかもそれが完成形の顔とかなり違っていいたことです。この像興福寺の阿修羅像は乾漆像、つまり、木で枠組みを組んだ上に粘土を盛り上げ、そこに麻布を貼り漆を塗っておおよその形を作り、木や樹皮などの粉末と漆を混ぜて練り合わせたものを貼り付けて細かな整形を加え、完成後に像の後部から粘土を掻き出し、型崩れしないよう内部に木枠を組み入れたものです。
調査では、CTスキャンして像の内側の構造を調べたものの、補強のための裏打ち布が貼られていたため、それをコンピュータ処理で除いてさらに反転させ、そこに石膏を流し込んだ形のものを3Dプリンタで打ち出し、手作業で補足したところ、表面とは異なる顔つきとなったのです。
左脇面の原型は怒りを含んだ顔つきで完成像に比較的近いものの、人気が高い中央面の原型は、表情がきつく、両眉がつながっていて粗野な雰囲気だった由。決定的に違うのは、右脇面であって、完成像では下唇を噛んで泣くような表情であるものの、原型では口が僅かに開いており、あどけない表情ながら驚いて放心しているようでした。
調査に当たった山崎隆之氏は、これを金鼓の音にはっとしている様子と見ます。それが、完成像では、一歩進めて懺悔に涙している表情に変わったのだろうというのが、氏の推測です。
面白いですね。それにしても不思議なのは、なぜ闘争してやまない荒々しい鬼神が、少年のような姿で造型され、涙をうかべそうな表情にされたのか。当時の日本の貴族の仏教受容のあり方によるとしか言えないでしょうが、こうした日本化は他のいろいろな面でも見られます。我々が仏教と考えているものは、実は、かなり日本化された仏教である場合が多いのです。