――それで、今日ちょっとお聞きしたいなと思っていたのが、言語を覚える前の赤ん坊が世界をどういうふうに見てるんだろうということで。実際にはどうやったって分かんないんですけど。
それはすごいですね。どうやって見てるんでしょうね。
――物心がつくって、個人的には、言葉を覚えて、言語を通して世界を見ることができるようになることじゃないかって思うんです。たまに生まれた瞬間のことを覚えてるみたいなことを言う人もいますが。
三島由紀夫も言ってますよ。
――あ、そうですか。本当かなって思うんですけど。
どうなんでしょうね。言語を全く身に付けてない状態で世界を見ると、われわれが見ているのとはまったく違う世界になるのかもしれませんね。それがどういう世界かはちょっと分からないですけど。
――ソシュールのいう「ランガージュ」っていうのは、すべての人間に備わった、言語を発動させる能力のようなものなんですよね。
そうですね。
――それを仮に人間の「本能」だとするなら、人間はやがて言語を話すようになるものとして生まれてくるのだから、言語を話せない赤ん坊であっても、大人と同じような世界が見えているという考え方もできるのかな、と。
なるほど。ただ、ランガージュを持って生まれてきたとしても、実際にある言語を話す共同体の中に何年間かいないと、ランガージュは発現しないんですよね。潜在的なまま眠ってしまうと、全く違うものになるのかもしれない。そこは分からないですね。
――なるほど。じゃあ、生まれたての子馬がすぐに四本足で立ちあがるみたいな、そういう本能とはちょっと違うと。
違うと思いますね。言語からは少し離れるかもしれませんが、ベルクソンという哲学者は、われわれが見る世界はわれわれの記憶が大きく影響していると言っています。
――記憶、ですか。
われわれが見る世界というのは知覚と記憶が融合したものなので、そこから記憶を抜いた「純粋知覚」というものを考えようというんです。
――記憶を抜く……、そんなことができるんでしょうか?
まあ、できないでしょうね。ベルクソンは理論上、そういうものが出てくると言っています。だからさっきの赤ん坊と同じですけど、人間じゃなくなった状態でこの世界を見たときにどう見えるかっていう話になってきますね。完全に記憶をなくしたときに。それは実験できないし、具体的にどうなるかはちょっと分からない。
カントはこの世界の向こう側には「物自体」というのがあって、われわれはその物自体から刺激を受けて自分たちの世界を作り上げているというふうに言っています。そうすると、ベルクソンの純粋知覚も、そこから世界がつくられるという意味では、物自体のようなものだと言えるかもしれません。本人は否定するでしょうけど。
――物自体という考えは、われわれはこの五感だけでしか世界を知覚することができないので、実際の世界、という言い方も変ですけど、完全に客観的な、ありのままの世界には決して触れられないということでしょうか。
そうですね。カントの意図とはちょっと違うかもしれませんが、結局われわれは可視光線しか見えないし、可聴領域の音しか聞こえない。どう頑張ったって、非常に限られたものしか見てないし聞いてないわけです。
嗅覚もそうですよね。ということは、もしわれわれの知覚・聴覚・嗅覚が全開になったら、すべてが知覚できるようになったらいったい何が見えるのか。そうするとカントの言う物自体の世界と、私たちの体に現れてくる世界の関係というのは、われわれの知覚能力の制限を取っ払った先に何があるか、っていうことと同じかもしれない。
――すべての光が見え、すべての音が聞こえたとしたら、どんな世界が現れてくるのかと。
あるいは、われわれはどうしても肉体に束縛されていますから、肉体を取っ払った知覚能力だけの化け物みたいなのがいたら世界はどう見えるか。でも、それは恐らく神ですよね。全知全能だったら物自体に触れられるのかもしれません。われわれが体によって非常に制限されてることは確かなので。
――私たちは個々に、自分の体に現れてくる世界だけを見ているわけですね。
われわれの存在のあり方が一個一個分かれているわけです、不思議なことに。しかも知覚の能力というのはそれぞれ違っていて、目がすごくいい人もいれば、耳がまったく聞こえない人もいる。個々に与えられた、この体という「窓」からしか世界は見えない。
それこそいろんな人の話を聞いたり、本を読んだりして「世界はこうなっている」という情報は入ってきますけど、それがいま自分の見ているこの世界と同じだとは、どうしても思えないわけです。一次情報ですもんね、こっちのほうが。だから、われわれの存在のあり方自体、独我論的な考え方が出てくる構造になっている。
――構造的にそうなっちゃってるんですね。
そうなっています。世界が実際に独我論的であるかどうかは別として。