「私たち家族」を考えようとしてふとまわりを見まわすと、親類や知り合いの中に家族の中心にワンちゃんがいる家が少なくないものですから、そこから入りました。私はイヌ好き・・・というよりイヌに仲間と思われている節があるのですが、最近は仕事の関係で家にいないことが多かったので、家族になるのを我慢しています。

 ところで、調べていくうちに、本来家畜として仲間にした動物たちと人間の関係は、人間が飼いならしたという一方的なものではないことがわかってきました。とくにイヌはその感じが強く、同じ仲間として一緒にやっていこうねとお互い納得し合ったとしか言えない関係が見えてきました。他の動物たちの場合も、人間が優位で、自分のために役立てるものとして飼うという意識だけではすまない、生きものとしての関わり合いを思わせるところがあります。これはとても重要なことですが、なかなか複雑でもあり、また改めて考えることにしたいと思います。

 そこで家族の本来に戻り、人間にとっての「私たち家族」の意味の中でも原点と言える「共食」と「育児」を考えようと思います。今回は共食です。前述したように、人間特有の二足歩行は、家族のための食べものを運ぼうとして立ち上がったところから始まったという説があり、私はこの説がとても好きです。ヒト以外の霊長類の仲間はすべて森林で樹上生活をし、草食性です。オランウータンとゴリラは完全な草食性ですし、チンパンジーもほとんど草食と言ってよいでしょう。ですから私たちの祖先も、森林の中で果物などを食べて生きていたに違いありません。ただ、最も近縁のチンパンジーがそうであるように、昆虫やトカゲなどの小さな爬虫類も食べていたと考えられます。肉の味は知っていたのでしょう。

 そこで森をはずれて暮らす生活が始まった時には、森の中にいた時よりは果物が充分でないこともあり肉を探し始めます。二足歩行を始めた猿人の段階で石器を用いるようになった私たちの祖先は、まず、草原に野生動物が残していった獣骨に少しくっついている肉をはがして食べていたようです。そこで植物やこれまで食べていた昆虫などとは違う肉の旨味を感じたのではないでしょうか。

 250万年ほど前にホモ属になると、更に肉を食べるようになっていきました。ここでも、大型の動物を対象にした狩猟以前に、野生動物が残した屍肉を食べることをしていたようです。とくに骨を割ると出てくる骨髄を食したことで栄養価の高い食事となり、エネルギーを大量に必要とする脳が大きくなりました。脳の拡大は道具の工夫を生み、本格的狩猟へとつながっていく歴史が見えてきます。こうして、いわゆる狩猟採集が日常になり、本格的な狩猟採集社会が始まります。とくに大きな獲物が取れた時は、家族みんなが浮き浮きして賑やかな食事になったに違いありません。

 この流れの中で大きな出来事の一つは、やはり火を手にしたことです。80万年前には火を用いていたとも言われますが、日常的に火を使ったのは30万年ほど前とされます。火の力はさまざまな面で見られますが、食と関連する調理の持つ意味には大きなものがあります。今私たちが毎日行っている、お料理をして家族での食事を楽しむ生活につながっているのですから。

共食のはじまり

 こうして、まず森の中の果物などを主とする草食から始まった人間の食事は、骨や屍肉との出会いから始まる肉食の入った雑食へと移行していきます。そして狩猟採集により肉を更に多く摂るようになることと脳が大きくなることとが並行し、いよいよ私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスが誕生します。狩猟を始めると、家族という単位より大きな集団で動かなければ大型動物には向かっていけません。皆で追いかけ、石を投げたり、わなを工夫するようになったりという協力が必要です。こうして得た食べものは仲間の皆で分けますから、ここでも共食がなされたでしょう。こうして、人間ならではの仲間とのつながりは食を通して広がってきました。

 脳はたくさんのエネルギーを必要とする臓器であり、これが大きくなることは、体のどこかでの省エネを必要としました。植物よりも肉の方が消化しやすく、腸が短くて済み、実際に人類ではそれが起きています。調理ももちろん消化を助けました。こうして食べることの進化が、大きな脳という私たち人間を特徴づける進化を促したのです。

 生活という文化と生きものとしての身体とは、このように深く関わり合っています。それは現在も起きているはずで、一日のかなりの時間、スマホに向き合う生活を続けていることが、脳にどんな影響を及ぼすかという課題は、真剣に考える必要があると思います。

 共食を支えているのは、食べものを分け合うという行為です。サルの仲間では、強い個体は手にした食べものを独り占めします。ところがチンパンジーやゴリラになると、美味しそうな食べ物を強い個体が持っているときに、弱い個体が欲しそうな素振りをみせます。強いオスが肉や大きなフルーツを食べているところへ来たメスや子どもがちょうだい、ちょうだいと求める映像があり、そこではオスが渋々ではありますけれど分けてやっていました。それを見て、ああよかったと思い、仲間意識を持ったことを思い出します。こうして、霊長類の中で、共食の土台ができ始め、それが人間で強化されていったのです。

 いよいよ人間の共食です。ここには、他の種では見られないことが生じます。食べものを平等に分け合うのです。欲しいと言われて渡すのではなく、食べものを手に入れる時から家族、時にはもっと広い仲間と共に食べることを考えているのが人間なのです。

 最初に、人間は他の霊長類より弱かったので、森のはずれに暮らすようになり、更には森の外へまで出て行ったという説を、食べものの運搬と関連づけて紹介しました。そのような厳しい環境での生活が、皆で一緒に食べることによって仲間意識を強くした方が生き残れるという判断を生み出したのだろうと思われます。弱いことが、社会性の強い生き方を生み出したとも言えるでしょう。ここからコミュニケーションの大切さが生じ、それは言葉の誕生にまでつながるのだろうと思います。共食の意味は大きいのです。

調理の役割

 火を用いての調理は、共食を更に強めたに違いありません。今も私たち日本人は鍋料理(アメリカ人ならバーベキューでしょうか)が好きですよね。寒くなるのは嬉しくないけれど鍋料理を楽しむのはやはり冬、今年初めて今日は鍋料理と決めてお買い物に出たときはニコニコでした。仲間との時は、必ず鍋奉行を自称する人が登場して、ワイワイガヤガヤ。食べるのと喋るのに忙しい時間が生まれます。火を使い始めた頃にも、火のまわりに皆が集まり、食べものを分け合いお喋りを楽しんだに違いありません。共食による仲間意識は、ここでより強くなったでしょう。古代人がとても身近になります。

 調理は仲間意識を強めるだけでなく、生では食べにくい、または消化できないものも食べられるようにして、食の幅を広げます。火を通すことで成分が変化し独自の味を生み出します。生存のために食べるだけでなく、食べることを楽しむ気持ちはこれでますます募ります。そのような楽しみの共有が続くと、それが一つの文化になっていきます。こうして現代社会に存在する家族の味、地域の味などと呼ばれる食文化が生まれてきた経緯は、人類の歴史の大事な部分を形成しています。

 調理は更に、自然のままの食べものについている病原菌や寄生虫を殺し、いわゆる消毒の役を果たします。しかも、調理したものは噛むのが楽で、消化がよいので、食事の時間が楽しくなります。共食を楽しむと言っても、生肉を囓っていると一日5時間ほどを食事の時間にしなければならないので大変です。調理によって、これが一時間ほどに縮んだとされます。

集団を保つには

 人類の歴史を見ていく時には、まずアフリカの森林、それからサバンナへという流れが主となりますので、狩猟の対象はそこの動物、食べるのはそれらの肉となりますが、人々はもちろん川や湖、さらには海からの魚や貝なども食べていたに違いなく、近年、遺跡からその痕跡の発見もなされています。調べが進めば進むほどに、古代の人々がさまざまな食べ物に支えられる豊かな暮らしをしていたことが見えてきます。

 時には遠出をして見つけてきた食べものには、これまで食べたことのないものもあったでしょう。自然界には毒をもつものが少なくありません。新しいものを食べる時には、きっと皆であれこれ工夫をしたでしょう。それを手に入れてきた人への信頼も必要です。こうして家族や仲間の中に、信頼や共感が培われていったのではないでしょうか。

 今もアフリカなどに存在する狩猟集団のでは、構成員の獲物に対する権利は平等なのだそうです。狩りには役割分担があり、最後に獲物を仕留めた人が一番大きな役割をしたと評価されそうですが、皆平等というのが、集団を保つために不可欠と考えられているとのことです。日本にも少数残っているマタギ集団でも全く同じだそうです。平等であることが集団を継続させるための最高のありようだということが、経験から分かっているとの説明に、ここから学ぶことがあると感じています。

 食べるという、生きものとしての私たちが生きていく根っこから見ていくと、人間の人間としての特徴が生まれ、人間社会の基本ができていった様子が明快に見えてくるのがとても興味深く思われます。基本単位である家族は10人くらい、狩猟を可能にする仲間の人数は30人くらいだったろうと思われます。そしてそこには共感があり、平等があるのですから、今の私たちの生き方もこれを基本にするのが、人間らしく生きることなのではないかと思えます。

 仕事には役割分担があって当然であり、どの役割も仕事を進めていくには不可欠なものであるとすれば、それぞれがその役割を誠実に全うすることでしか事は成りません。そこではそれぞれが平等に評価されるものでしょう。今は一つの物差しで能力を測り過ぎているのではないでしょうか。そして格差を生み出しているのです。このような社会は住みにくいといつも感じ、何とかしたいと思っています。やはりこれは、生きものとして生きる姿とかけ離れているからでしょう。自然な形で生まれる平らな社会に暮らしたいと改めて思います。

 家族とは共に食べることを大切にする生活の基本単位であると考えれば、そこに血縁関係があるか否かというような面倒な話は抜きにした仲間ととらえることができます。今もこのような仲間の重要性は変わりません。社会が複雑化し、共食でなく個食、孤食をせざると得ない状況が生まれている現代社会の見直しが必要です。

 私たち家族という言葉を単に親子、兄弟姉妹に閉じ込めず、共に食べる仲間の存在の重要性を考えるキーワードにできるのではないか。「私たち生きもの」から始まる「私たち家族」は、そんなことを語っています。お食事をなさりながらあれこれ考えてみて下さい。

 「共食」と共に重要な「育児」については、次に考えます。