ウイルスとの関わりの中で「私たち生きもの」再考

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックという思いがけない災難に出会ったことを一つのきっかけとしてこの連載を始めた頃は、「ポスト・コロナ」という言葉がよく聞かれました。漠然と、一年もすれパンデミックは終わるだろうと何の根拠もなしに考えていたのではないでしょうか。けれども現実は違いました。すでに一年半以上経っていますが、ますます混乱状態になっているとしか言えません。

 コロナウイルスは、ある意味馴染みのウイルスです。インフルエンザウイルスもその仲間ですし、幸い日本では流行しませんでしたが、コロナ仲間で起きたSARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)などの場合比較的素早く流行を抑え込んだという体験があります。今回も、ウイルスゲノムを解析し、そこからPCR検査での感染者検出をしたりワクチン製造をする(日本は自国でのワクチン製造ができず、科学技術立国という言葉が空しく響きました。これは大きな課題ですが、ここではこれ以上入りません)など、21世紀ならではの対応がありました。こうして、科学技術を持つ人間の力を見せつけて闘っていくつもりだったのです。当初は「コロナに打ち勝つ」という言葉もよく聞かれたことからも、人々の意識は人間優勢だったと言えましょう。けれども、事は思惑通りには進んでいません。結局、手を洗い、マスクを着け、密を避けるという日常に頼り、その中で経済活動を続ける方策を探ることになったのです。政治・経済を動かしている人たちはここに答えを見つけられず、混乱が続いています。

 予想よりも対応が難しくなっているのは、新型コロナウイルスが当初考えていたよりも複雑な様相を示しているところにも原因があります。ウイルスが変異をすることは専門家なら当然予測していたことですが、通常ウイルスは自身の存続を求めるなら弱毒化して落ち着くというのが科学での常識でした。ところが新型コロナウイルスは様子が違います。現在主流となっているデルタ株は、感染率、重症化率共に原株より高く、医療現場の逼迫を招いています。専門家が「こんなウイルス見たことありません」と語っているのが印象的でした。しかも後遺症が残ります。テレビのニュースで認知能力が低下して仕事が続けられず、退職に追い込まれた30代の男性の姿が映し出されました。その諦めたような様子が忘れられません。ウイルスは脳に入るはずはない(これも常識にすぎませんが)のですが、亡くなった方の解剖で脳への影響が見られます。思いがけない事の連続です。

 ここまでの文の中で「・・・」をつけた言葉を見て下さい。科学技術と経済の力で闘って打ち勝ち、思い通りの社会を組み立てることをよしとしてきた私たち人間にとって、思いがけないことが次々に起き、混乱しているという現状がここに現れています。ここから抜け出す方法は、ワクチンを打ち、集団免疫を獲得する以外考えられませんが、これとて絶対ではありません。副作用の問題もありますし、ワクチンを打った人の死亡例もあるなどわからないことだらけなのです。この連載で考えたいのは、ここから抜け出す方法は、「私たち生きもの」というところから始まる「私たち意識」だということです。ウイルスと向き合うには、人間が生きものであるという意識を持つ必要があります。

 これまでの回で、「私たち生きもの」という考え方から見えてくる「私」について述べてきました。一言で言えば、私は38億年前の海で誕生した祖先細胞以来続く生命の歴史の中で、さまざまな生きものたちの共生で生まれた存在なのです。しかも今もなお私の体は、さまざまな生きものあっての存在ということもわかっています。長い歴史をもつ生きものたちとの入れ子構造になっていると言えます。つまり、「私たち生きものの中の私」は、“他の生きものもいっしょうけんめい生きているのですから、それと仲よくしましょうね”というレベルの関係を超えた「私たち」の中にいるのです。この認識を基盤に持つことの重要性を、新型コロナウイルス感染拡大が止まらない中で再確認しました。

 こう考えると、経済活動さえ大都市の高層ビルの中で行う活動にこだわらず、自然と向き合うところから考え直し、新しい道を探る可能性が見えてきます。

「私たち生きもの」としての人間

 先回述べたように、光合成能やエネルギー効率の良い生産能を手に入れて、どこまでも継続していく可能性をもった細胞が、多細胞化して眼に見えるようになったという歴史がヒトという生きもの、つまり私たち人間にまで続いてきたのです。ところが人間は、「続いていく」という生きものにとってはあたりまえのことができなくなっているとしか言えないのが現代社会なのです。今必要なのは、「私たち生きもの」という意識をもって、次の世代、次の次の世代へと続いていく生き方を探ることです。

 それには、38億年に渉る生きものの歴史物語を読みながら考えて行く他ありませんがこの連載ではそのすべてを追っている余裕がありません。最後に本を紹介しますので、それをお読みいただけたら嬉しいです。

 多細胞化した生きものが、動物や植物として多様化していく過程の詳細は飛ばして、約5億年前の上陸から始めます。この時まで生きものが存在したのは水中だけであり、陸地は岩や砂しかない寂寞(せきばく)の地でした。最初に陸に上がったのは植物でした。そして今や、地球は海のある「青い星」であると同時に、みごとな森林に覆われた「緑の星」でもあるわけです。この豊かな生態系を有難く思うと同時に、時々なぜ生きものは陸に上がったのだろうとふしぎに思うことがあります。水がなければ生きていけないのが生きものなのですから。上陸すればお日様に照りつけられて体の水分は蒸発しますし、重力にも逆らわなければなりません。水中で漂ったり泳いだりしている方がはるかに楽でしょう。なぜと聞いても仕方のないこと、ここは、生きものは挑戦が好きなのだと思うことにします。後述しますが、森あっての私たち人間であり、人間の歴史はここから始まったのですから人間も挑戦好きなのは当然ですが、どのような挑戦をしたらよいかは、よく考える必要があるでしょう。

 最初に陸上で見られたのはコケ類です。私はコケが好きで、庭にも少し湿った土のあるあたりにコケが生えてくると大事にしているのですが、なかなか京都のお寺のようにはいきません。思うようにいかないのが生きものと言いながら、こんな時は、ちょっと言うことを聞いてよとコケをにらみつけています。水中から出て行ったのはシャジクモ(藻類)と言われていますが、この進出も実は単独行動ではなかったことがわかってきました。菌類(カビ、キノコの仲間で、以前は植物に近いとされていましたが、ゲノム解析の結果動物の系統に近いことが分かりました。見かけからは想像しにくい結果です)と一緒に誘い合って冒険に出たのです。藻類と菌類が一緒に暮らす仲間は「地衣類(ちいるい)」と呼ばれ、今も過酷な環境でも生きられる仲間として知られています。

 藻類は光合成で糖分をつくり、菌類は触手を伸ばして水や無機塩類をとって、お互い補完し合いながら巧みに暮らしているのです。「私たち」で行こうよという感覚はここでも生きています。上陸したコケが行ったもう一つの工夫は、体表にロウのような脂肪質で「クチクラ」を作り水分の蒸発を防ぐことでした。この時呼吸に必要な気孔を作ることは忘れませんでした。一つ一つ見ていくと、小さな生きもののみごとな工夫が見えてきて、人間もしっかり工夫をして生きていかなければいけないぞと気が引き締まります。

 しばらくして、と言っても上陸後4000万年ほどしてですが、茎がのびて直立し、枝のある植物(クッソニア)が生まれ、その後地中に根、空中には葉が広がっていきます。茎は幹へと変わり、樹木が生まれて針葉樹林ができ上がります。

 植物の上陸とほぼ時を同じくして、昆虫類が上陸します。ヤスデやサソリに始まり、今や生きもの全体の70%を占めると言われる多様な昆虫の世界ができますが、昆虫の進化で興味深いのは、翅をもったことでしょう。それによって、空が生きものの世界になったのですから。水中にいたら空へは出て行かなかったのではないでしょうか。地上に出てみたら、そこは空とつながっていて、新しい世界が広がったのです。進化を見ていくとこのような興味深い変化が見えてきて肩ひじ張らずに変化を楽しむ生き方を考えるようになります。

 いよいよ脊椎動物、つまり魚たちの上陸です。両生類は、カエルでわかるように卵は水中ですからまだ完全には水とお別れしていません、殻つきの卵で羊膜が胎児を守る爬虫類になってようやく完全な上陸と言えます。こうして恐竜、鳥類が生まれ、哺乳類も生まれてきます。このあたりは、絵本や図鑑でおなじみのところであり、多様な植物、動物、菌類がつくる世界に最後に登場するのがヒトなのです。森の中で700万年ほど前に生まれました。

 大雑把な歴史ですが、5億年かけてでき上がってきた「私たち生きもの」の中にさまざまな知恵が秘められていることは感じとっていただけたでしょうか。それは別の言葉を使うなら、さまざまな挑戦とも言えます。

 これを見ると、ここに入っているたくさんの知恵から学びとりながら、人間として考え、知識を組み立てて生き方を探る必要性を感じます。他の生きものと同様な挑戦をするのが人間のこれからの生き方になると考えるのは、それほど間違っていないでしょう。

 窓を閉め切って空調の効いた部屋の中でコンピュータに向き合い、仕事が終わったら冷凍ギョーザ(実は食べたことがないのですが、オリンピックの選手村で外国選手たちの間でこんなおいしいギョーザは食べたことがないと評判だったと聞いたものですから、これで行こうと)を焼いてビールと一緒に楽しむ。このような生活をしながら、いつかAIが人間を超える日が来るのだろうなと考える。これが現代人の典型的な生き方だとしたら、「私たち生きものの中の私」としては情けない気がします。コンピュータを活用するのは人間の挑戦の一つとしてもちろんありですが、主人公はあくまでも人間であることを忘れてはいけません。私たちの一人一人が生き生きと暮らせる社会を支えるために機械はつくられたのですから。

 因みにわたしの家では、空調機は来客時以外使いません。その日の風向きを見て窓を開け、風の通り道に座ることに決めており、これがとても気持ちよいからです。雲の動き、風の通り道を眺めていると、ウグイスとミンミンゼミが一緒に聞こえるという最近のふしぎな季節感もまた、何かを考えさせてくれますし。

 人間について考えるにあたり、近しい仲間たちに挨拶をしておきましょう。今ではヒト属と呼ばれる仲間がオランウータン、ゴリラ、チンパンジー(ボノボも含む)で、いずれも森に暮らしています。オランウータンは東南アジアの熱帯林、それ以外は皆アフリカの熱帯林で、果実が主食です。ヒトの祖先も同じような暮らしをしており、ゲノム解析の結果、最も近いのがチンパンジーであり、全体として数%しか違わないことが明らかになっています。

 とくにアフリカの森で今も暮らすゴリラとチンパンジーについては多くの研究がなされており、その性質や暮らしには、ヒトと近いものもたくさんあります。

 先ほど述べたように、空調の効いた高層ビルの一室でコンピュータに向き合う人間の第一歩は、この森から出たことにあることは明らかです。そして実際に私たちが歩いたのは、森を忘れようとする道でした。今、自然との向き合い方を考えるとは、もう一度この道を振り返り、見直すことではないでしょうか。