――近代になると監獄に罪人を収容する監禁刑が身体刑にとって変わるわけですが、この変化が起きたのはなぜですか。
明確に一つの理由があるわけではないと思います。これに限らず、フーコーの著作には「なぜか」はあまり書かれていない。「なぜか」ではなく、「何がどう起きたのか」を著述していくのが彼のスタイルで、しかもそれが突然起こったと強調するのが好きなんです。監禁刑に関しては、18世紀の終わりくらいに突然広まったと書かれています。
――ということは、フランス革命のあたりですね。
そうですね。フランス革命ではマリー・アントワネットやルイ16世がギロチンにかけられたわけですけど、ギロチンというのは苦しませずに殺す道具なので、その時点でダミアンの例のような過剰に見える身体刑に対する違和感が出てきていたと考えていいと思います。
――監禁刑というのは、罪人の身柄を拘束することで、近代人の最大の権利である自由を剥奪するという理屈ですよね。
建前はそうなっていて、今でもそういわれていますけど、フーコーはこれを完全に否定しています。ただ自由を奪うだけなら、島流しでもガレー船でもいいわけですから。彼は、監獄は、学校や工場や軍隊や病院と同じく、「規律」というテクニックで管理されている場所だといいます。つまり監獄にとって、自由を奪うことは本質的ではなく、そこは規律権力が作動している数多くの例の一つに過ぎないというわけです。
実際、刑務所と学校って似てますよね。整列させて「気を付け」「休め」といった号令をかけたり、そろって体操させたり。工場もそうですけど、これはつまり、全員に同じ動作をさせることで、身体に規律を覚え込ませるための場所だというわけです。
――そういうことだったんですね。
規律は最小限の労力で最大限の秩序と力を引き出すことを目指すテクニックで、「生権力」の一タイプなのです。つまり、個々の身体に働きかけ、特定の仕方で生きせる権力です。なので、そこでは身体をいかに痛めつけるかではなく、いかに活用していくかが重要になります。
『監獄の誕生』の巻頭には、17〜18世紀のさまざまな「正しい姿勢」を解説した図が載せられていますが、私たちは、たとえば字の書き方だったら、鉛筆は人差し指と中指でこうもって、親指はここで、反対の手は紙を抑えて……といった感じで習いますよね。そうでなければ、もっとめちゃくちゃな書き方をしているはずです。あるいは、人と話すときにはちゃんと座って、相手の話を「うんうん」とうなずきながら聞くっていうのも習っているからできるわけで、中世の農民は教室みたいな場所にずっと座ってなんかいられなかったと思いますよ。
――ある意味、私たちは調教されているんですね。
そういうことです。兵士の例がわかりやすいんですけど、たとえば三国志に出てくるような昔の武将って、戦列の一番前に出てくるじゃないですか。派手な格好をして甲冑を着て、誰よりも目立っている。それだと敵にも真っ先に狙われて危ないんだけど、当時はこうした武将の力量が勝敗を決めた。大将の首を取るのが戦闘だったのです。そのため、古代ローマもそうですが、体格がよくて知略にも優れた超人的な戦士が求められていました。
でも、近代はそうじゃない。近代の戦争では兵士がずらっと並んで鉄砲で撃ち合うわけですから、全員が同じように撃てなければいけないんです。つまり、まわりと同じように動ける兵士こそが必要とされる。
――超人的な能力は必要ないと。
抜きんでた能力もつ存在=英雄が活躍したのが昔の戦争で、近代の戦争は逆に、規格品のように同じ動きができる兵士がいっぱいいる方が強い。こうした変化は社会全体の工業化とも関係していて、画一的に「調教」された人間が同じように行動することで集団の目的を達成する、というのが近代という時代の特徴だと思います。
――学校で規格品のような生徒を育てることが、そのまま、規格品のような兵士を生み出すことにつながっているんですね。
工場で働く人もそうです。それこそ戦後の集団就職の時代なんかには、工業化された社会がそういった規律的な人材を求めていたといえます。それが現代ではポスト工業化社会となり、個性の時代だとか言われているわけですけど、ではその現代において規律的ではない、「個性的」な人間が求められているかというと、あまりそんな感じもしないですよね。
規律とは何か
――権力というとふつうは全体を一元的に統治する強大な支配者、それこそホッブスの「リヴァイアサン」みたいなものを想像しがちですが、規律によって作動する権力というのは、それとはかなり違いそうですね。
ぜんぜん違います。たとえば、学校の中で起きてることって、外の人にはまったくわからないじゃないですか。だから、いじめとかがきっかけで学校の内情が報道された時に「なんでこんなことが!?」とみんな驚くんですけど、規律には閉鎖空間のなかで独自に進化していくという特徴があります。
たとえば、ポニーテールは禁止だとかっていうのも、元々はおそらくなかったんですよ。それをあるとき誰かが思いついて、男子生徒がうなじに欲情するから、というので規則になった。そんなことを本気で言ってるんですよ! 欲情してるのは規則を作ったあんただよって言いたくなるんですけど。
――そういえば最近、髪の毛がもともと茶色い生徒が、規則だからというので黒髪に染めさせられていたというニュースがありましたけど、それもおかしな話ですよね。
そうですね。元々は髪を染めるのはダメだという話だったのが、いつのまにか髪が茶色なのはよくないということになって差別問題にまで発展したわけです。規則というのは少しずつ変わっていくものなので、先生たちもどこでおかしくなったのか気づかなかったのかもしれません。理由があることとそうでないことの違いが誰にもよくわからない。閉鎖空間の中はそうなりやすいんですよ。
――外部の目が入らず、おかしいと指摘されることもないから、独自の「進化」を遂げていくわけですね。
それは官僚制にも当てはまると思うんですよね。官僚制も規則がどんどん増えてくじゃないですか。それが作られたときには多分合理性があったんでしょうけど、時代や環境が変化していくうちに、何のためにあるのかわからなくなる。
――規則のための規則になっていく。
規律は元々修道院から来たといわれています。修道院の規則は細かい上に厳格だから、やってる人たちもなんでここまでって思ってたんじゃないかな。あとは軍隊もすごいですよね。
規律というのは要するに、何らかの目的を達成するために集団生活の中で生まれてきたものですが、それが体系化されて社会のあちこちに広まったのが近代だということだと思います。
――社会の中で人びとの行動を規制するものとしては昔から法がありますが、法と規律はどう違うんですか。
法というのは一般化するんですよ。憲法を見ればよくわかりますが、ある人にはこうだけど別の人にはこうだというのではなく、すべての人に対して同じように適用される。つまり例外を設けないわけです。それに法においては、条文に書かれている「してはいけないこと」以外はしてもいいことなんです。
それに対して規律はある特定の場所や場面における決まり事なので、無限に「すべきこと」を定めていきます。そのうえ恣意的な判断による例外がよく生まれます。こいつは俺に従順だから見逃してやろうとか、逆に生意気だから厳しくしてやろう、みたいに。そうやって元々のルールから逸脱したものがまた新しいルールになっていくという側面があり、それも法とは大きく違うところです。