――ここまでのお話をお聞きしていると、近代以降の戦争というのは資本主義というか、自由経済というシステムが不可避的に引き起こすもののように思えてきました。戦争が起きれば兵器が売れ、産業が発展し、新たな技術開発への投資も可能となる。朝鮮特需なんかはその好例ですが、人間が殺し合うことで発展していくシステムって一体なんなんだと思ってしまいます。

 自由主義経済というのは欲望の解放と競争を助長して階級分化を生み出し、人間の共生社会を根底から枯渇させるメカニズムだと思います。効率や性能を追求することは、あるところまでは何かを生み出すポジティブな役割を果たすんだけど、その地点を過ぎると、逆に破壊のメカニズムへと転化してしまう。アドルノとホルクハイマーは「啓蒙の弁証法」を語りましたが、もっと具体的な生活に接したところでは、イヴァン・イリイチ(1926-2002)という哲学者が「逆生産性」ということを言っています。生産性を追求し続けることが生産性の根本破壊につながるというんです。

 たとえば、病院というのは当然病気やケガを治療する場所ですが、それが保健行政の中核になって「病院管理社会」のようになると、そこから逆に治りづらい病気が出てくるようになる。イリイチはこれを「医原病」と言ってますが、ちょっとしたことでも病院に行くようになることで、人間本来の抵抗力が弱まるだけでなく、医療行為そのものから疾患が生まれるようになるというんです。元々はポジティブだったはずのものが、意に反してネガティブな作用を生み出す。そうことは確かにいろいろな場面であると思います。

 文明を否定したいわけではなく、それがある臨界を超えて加速するようになると、文明自体をも否定するネガティブなものになるということが言いたいんです。だから文明はその臨界の前――それは自然環境や人間性といった領域との関係で決まるものだと思いますが――で自制しなければいけない。限界突破が新たな可能性をもたらすのではなく、限界は、超えたら可能性そのものがなくなるのです。

――私たちの社会はいま、あらゆる分野でその限界を突破しているように見えます。個人的には、自然界ではほとんど起きることのない核反応を発生させる「原子力」が、超えてはならない最初の臨界だったのではないかと思います。

 そうですね。核開発で人間にとっての技術というものの底が抜けたんです。それがあることで暮らしの助けになるとか、みんなが豊かになれるというものだったはずの技術が、人間を置き去りにして「向こう側」に行ってしまった。それをポスト・ヒューマンとか言って礼賛している、あるいは当然の成りゆきだと思っている人たちがいまの世界を動かしているわけですけれど、技術が人間から離れてしまったら、一体それに何の役の意味があるんでしょうか。

 西洋哲学にはよく「理性」という言葉が出てきますが、これは英語ではreasonです。つまり、なぜという問いに答えるもの、理由、根拠のことです。その反対は何かというと狂気です。足下が崩れること、根拠を踏み抜いてしまうことを狂気というのです。日本語では分別がなくなるとも言いますが、今はもう、科学も経済も、「なぜ」に応えることを忘れてその狂気の領域に入っていると思います。

――おっしゃる通りかもしれません。

 もう一つ言うと、現代は「メディアスペクタクル社会」なんです。ウクライナの状況に限らず、われわれはほとんどすべての情報をメディアから得ている。そしていうなればメディアの「観客」として、それも参加した気分になっている観客として日々を過ごしているわけです。メディアが取り上げないものは見聞きできないし、メディアはメディアで「観客」に受けそうなものしか取り上げない。逆にいうと、ウケさえすればよく、根拠なんてものはさして重要ではない。売れるものがよい商品、それが市場の鉄則です。だから時代は「ポスト・トゥルース」ということになるわけです。

――メディアも狂気の領域に入っているというわけですね。すべてのメディアがではないと信じたいですが……。

 もちろんメディア自身は、そんなことは思っていないでしょう。自分たちは真実を伝えていると思っているでしょうから。でも、さっきも言ったように、いまや「西側」が世界の標準になっているから、メディアの場そのものにバイアスがかかっていて、そこに組み込まれた視点を相対化するのは、相当意識しないと難しいのでしょう。

――そう言われてみると、いまのこの戦争もメディアが提供する「コンテンツ」の一つとして消費してしまっているように思います。

 ヨーロッパの一画、というより境界線上で現実に起きていることをスクリーンで見ながら、グローバル化した世界の出来事だからと自分も参加している気分でコメントできる。こういう構造のTV番組を「リアリティーショー」といいますが、われわれはまさにこの戦争を、リアリティーショーとして観ているんですよ。

 メディアは現地とわれわれを媒介するものですが、同時に「観客」同士をつなぐものでもあり、それがリアリティーショーの舞台となる。私はそれを「メディア・コミュニケーション空間」と呼んでいますが、われわれはこの空間の中でしかものが言えないし、そこでの発言はすべて取り込まれて、それもまたリアリティーショーの一部となる。そして、少数派の意見、自分の気に食わない意見には、SNS上で大量のバッシングが浴びせられることになるわけです。

 こうした状況で、自分の考えを話したり書いたりするのは、本当に大変です。大変ですが、それでもやり続けるしかない。支配的な言説を受け入れることは、現実に働いている権力に追従することに他なりません。それではやはり、ものを考える意味がないと思うんですよ。


(取材日:2022年6月20日)