月の光の上に座る
前回は、鉢が空を飛ぶ話、また、月に帰ったかぐや姫のモデルは『月上女経』の主人公である月の光より輝かしい月上女だという話でした。そこで今回は、この二つを合わせ、人が中空に浮かんで月の光の上に乗る話を紹介しましょう。
アニメ映画や漫画などでは、三日月に人が腰かけている姿をたまに見かけます。これなら、何となくありそうに見えますが、月そのものではなく、窓から差し込んできた月の光の上で結跏趺坐(編注:両足の甲をそれぞれ反対の足の太ももにのせる座法。坐禅の一般的な足の組み方)して念仏するという話が古代の韓国にあるのです。
それは、高麗で国師をつとめた禅僧の一然(1206-1289)が、高句麗・百済・新羅における仏教の歴史をまとめた『三国異事』に見える「広徳・厳荘」の説話です。この伝承によると、文武王の代(661-681)に、広徳と厳荘という二人の信仰仲間がおり、もし先に極楽に往生したら、必ず相手に告げようと約束していた由。
広徳は芬皇寺[ふんこうじ]の西に住み、わら靴を編むことを生業としており、妻を持っていました。一方の厳荘は、南岳のふもとで田畑を耕して暮らしていました。ある夕方、厳荘の家の外で、「私は既に西方に行った。君も早く来るように」という声がしたため表に出ると、空から光がたなびいています。
翌日、広徳の家を訪ねてみたところ、果たして亡くなっていました。そこで、その妻と葬儀を営んだ後、ともに暮らそうと申し出ると、妻が承知したため、その家に止まることになりました。夜になって厳荘が妻と通じようとすると、妻は、そんなことでは西方浄土には行けませんと叱ります。
厳荘が、広徳だって往生できたではないかと言うと、妻は、「私どもは同居すること十余年、いまだひと晩も床と枕を共にしたことはありません。夫は毎晩、念仏に努めており、時に明月の光が部屋の中にさしこむと、その光の上で結跏趺坐し、往生を願っていました」と告げます。
恥じて退いた厳荘は、新羅を代表する学僧であった元暁[がんぎょう]のもとを訪ね、往生のための修行法を教わり、おかげで「西昇」することができた。その妻は、元暁が住していた芬皇寺の「婢(下女)」であって、おそらく観音菩薩の化身だったのだろう、というのが話の結末です。
この話で興味深いのは、月の光の上に乗るという点でしょう。インドの場合、中インドや南インドは暑すぎるため、太陽はむしろ敬遠され、夕方にやや涼しくなり、暗くなってきた空に浮かんで輝く月こそが最も愛されていました。ですから、「月のようだ、月の光のようだ」というのが最高の褒め言葉となるのですが、経典では月の光に乗るという場面は見かけません。
もうひとつ気になるのは、厳荘は西方往生したとは書かれておらず、「西昇」したとされていることですね。極楽は、インドの経典では無限に遠い西の彼方にあるとされています。それなのに、「西昇」したと記すと、西方に向かって斜め上に昇っていって天に至ったように見えてしまいます。
空に浮かぶ寺の下女
実は、『三国異事』に見えるもう一つの説話にも「西昇」の語が見えており、これまた下女の話なのです。「郁面婢[いくめんひ]念仏西昇」、つまり、郁面という下女が念仏して往生したという話なのですが、この話では、信仰熱心であった下女の郁面は、寺の庭に二本の長い杭を立て、両手の手のひらに孔[あな]を開けて縄を通してその縄を両方の杭に結び、合掌した状態のまま左右に行き来しながら念仏に励んだとあります。
なんだかリードでつながれた犬が庭を走り回っているみたいですが、天から「堂の中に入れ」という声がします。天からの声という点も、広徳・厳荘の話と同じですね。そこで郁面が堂の中に入って念仏していると、西から聞こえてきた音楽に乗って郁面は浮かびあがり、屋根を突き抜けて西の郊外に至り、そこで蓮台に坐って光明を放つ真実の姿を示したのち、ゆっくり西方に去っていったと記され、観音の応現だと結論づけられています。
この話では、「西昇」の語は題名に見えるのみであって、屋根を突き抜けて上にあがったものの、以後は西方に向かっており、生天したのではないようです。それにしても、なぜ「広徳・厳荘」の話と同様に、寺と関係深い下女が空に浮かんだとされ、観音だとされるのか。
むろん、観音菩薩は様々な姿に変化して人々を救うわけですので、軽んじられがちな下女の姿で現れても不思議はないのですが、仏教の面だけでは説明できませんので、当時の新羅の民間信仰などがからんでいそうです。
大日如来とされた江戸時代の下女と龍になった山東半島の娘
下女が実は仏菩薩だったとする話はよくあるもので、日本では江戸時代のお竹如来が有名ですね。17世紀に江戸の佐久間家に仕えていた下女のお竹(於竹)は、信心深くて常に念仏を唱えており、自分の食べ物を貧しい人に分け与えてしまうことで有名でした。
このため、お竹がいる台所は後光がさすと言われるほどでしたが、ある行者がやってきてお竹は大日如来だと告げたため、以後、お竹を拝みに来る人が絶えなかったと言われています。
ただ、『三国異事』の説話と比べると、共通しているのは、下女と念仏という点のみです。お竹については、没後は人気がさらに高まって芝居にもされ、様々な伝記物語が書かれましたが、空を飛んだとは伝えられておらず、またどの話でも大日如来の化身ということになっており、観音の現れとはされていないようです。
日本で、空に浮かびあがり、月と関係深い人物と言えば、その代表は女性でなく、鎌倉時代の明恵(1173-1172)でしょう。明恵は、琴の演奏を聞いていた際、ふわふわと浮かびあがって梁のあたりに止まり、演奏が終わると下りて来たため、弟子たちが感嘆すると、空中で聞きたくなったからそうしただけであり、こんなことは修行すれば誰でも出来るのであって、悟りとは関係ないと述べ、超能力の面ばかり有り難がる弟子たちを叱ったと伝えられています。
また、明恵の月好きはよく知られており、多くの和歌を詠んでいます。最も有名なのは、その明るさを誉めたたえた「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」というものであって、和歌というより、ほとんど嘆声のようなものですね。
この明恵が「広徳・厳荘」の話とつながってくるのです。広徳の妻が下女として働いていた芬皇寺は、元暁が長らく住していた寺であって、厳荘は元暁に往生の法を習いました。明恵は、その元暁と、元暁の若い友人である義湘(625-702)のことを尊崇しており、この二人の伝記をそれぞれ絵巻にさせています。これが『華厳宗祖師絵巻』です。『華厳縁起』とも言われていて有名ですね。
ただ、元暁は晩年になって『華厳経』の注釈を書いている途中で亡くなるものの、大乗の諸経を等しく尊重した人物であって、華厳宗の僧侶ではなりません。新羅の華厳宗の開祖となったのは、元暁とともに入唐を試み、元暁が断念した後に一人で唐に赴いた義湘です。
新羅人町があった唐の山東半島にたどり着いた義湘は、その町の若い娘、おそらくは港の遊女である善妙にほれこまれます。義湘は長安近くの終南山で華厳宗の智儼に師事し、その学問を身につけた後、来た時と同じ港町に戻りますが、その娘には出会わないようにしてひそかに船で出発します。すると娘は、自ら海に身を投げて龍となり、その船を支えて新羅まで運び届けたのです。
前回のエッセイでは、空飛ぶ鉢が倉を運んだのですが、この義湘絵では、龍が船を背に乗せて海を疾走するのですね。善妙は以後も義湘を保護し、義湘が建立した華厳宗の寺である浮石寺の守り神となったのであって、浮石寺には本堂の裏側に小さな善妙堂が建てられており、参拝者が絶えません。
女性がいかに仏教を支えてきたか、そうした女性のうちの特別な存在が仏菩薩の化身としていかに信仰されてきたかが分かりますね。