花の名所としての寺
前回は、仏教は花と関係が深いという話でした。実際、華道は仏像に花を供える習慣が洗練されて生まれたものですし、花の名所として知られ、アジサイ寺とかボタン寺などのように花の名で呼ばれる寺も少なくありません。
前々回にとりあげた『秋夜長物語』にしても、文武両道の僧兵である桂海が絶世の美少年である梅若に夢中になったのは、三井寺のある寺坊の庭で、そぼ降る雨の中、梅若が桜の花を折り取る姿を見かけたためでした。三井寺は、現在でも桜の名所として知られていますが、これは南北朝頃からのことだったのです。
寺の庭を美しい花や木で飾りたてる風習は、早くからのものです。日本に仏教を伝えた百済[くだら]も、国王の寺はそうなっていました。韓国最古の仏教史書である『三国異事』では、「弥勒寺は山のふもとにあって川に臨んでおり、花と木が秀麗であって、四季の美が備わっていた。武王(在位: 600-641)は寺におもむくたびに船を用意させ、川に沿って寺に入り、その形勝の壮麗さを賞美した」と記されています。
百済は、貴族文化が盛んであった中国の南朝の仏教を手本としていたため、寺も四季の花や木が美しい園地のような形で造営されたのです。優雅な仏教音楽も盛んでした。そのような国が、荒々しい北方遊牧民族の血を引き、貴族の若者たちが熱烈な護国仏教を奉じて山や川を跋渉[ばっしょう]し、学問と武芸を鍛えあっていた新羅[しらぎ]に滅ぼされたのは当然でしょう。
百済が滅亡すると、この国の王族・貴族を初めとする多くの人々が日本に逃れました。日本仏教は、いや日本の文化は、この人たちの影響を強く受けているのであって、先に述べた花の名所の寺などはその一例なのです。
「寺」を「てら」と呼ぶこと
ここで注意しなくてはならないのは、法隆寺は「ほうりゅうじ」、東大寺は「とうだいじ」と呼ぶのに対し、地名などに基づく寺名の場合は「寺」を訓で「てら」と呼ぶことです。飛鳥寺は「あすかでら」ですし、清水寺は「きよみずでら」ですね。先に触れた「アジサイ寺」などの場合も、もちろん「てら(でら)」と呼ぶのが普通です。
しかし、「寺」の漢字音は「ジ」です。これは、六朝後期頃の発音が百済を経て仏教受容期に日本に入ってきたもので、現代の中国音では「スー」、韓国では「サ」と発音していますが、中国でも古い時代の発音が残る南の一部の地域では、今でも「ジー」と言っているようです。
「寺(ジ)」とは、古代の中国では役所のことでした。中国の仏教史書によると、後漢の明帝(在位:57-75)の永平10年(67)に、外国僧の迦葉摩騰[かしょうまとう]と竺法蘭[じくほうらん]という二人の僧が、経典を携え、白馬に乗って都の洛陽にやって来たため、帝が外交関連の役所である鴻臚寺[こうろじ]に留まらせ、翌年、洛陽の東に白馬寺を立てて二人をそこに置き、経典を翻訳させたのが仏教伝来の初めであり、「寺」の起源とされています。
その「寺」をなぜ日本では「てら」と呼ぶのか。これについては諸説ありますが、漢訳経典の音写語研究の第一人者であって、先年惜しくも亡くなられた辛島静志さんが興味深い論文を書いておられますので、補足を入れつつその内容を紹介すると、以下の通りです。
日差しが強くて暑いインドでは、国王や貴人に対してはお付きの者が背後から大きな chat(t)ra(チャトラ/チャットラ)、つまり豪華な飾りを付けた日傘である傘蓋[さんがい]をさしかけます。この風習が仏塔に適用され、供養のために塔に傘蓋が何本も刺されました。この風習が、荘厳さを増すために、塔の頂上に石造の傘蓋を重ねて積み上げていく形に変化していったのであって、これが東アジアでは五重塔などの頂上にそびえたつ柱に何層も据えられている「相輪(承露金盤)」となったのです。
chat(t)ra は、西域では発音が変化してkṣatra(クシャトラ)となりました。ただ、中国語には kṣ やtrのように子音が続く言葉はなく、kṣat(クシャッ)や kṣet(クシェッ)といった音については簡略された形で発音されます。kṣ の最初の k の音は落ち、「シャッ」とか「シェッ」と発音されました。仏典漢訳にあたって、この発音を表記するために新たに作られた漢字が「刹」です。
その「刹」の字が仏教とともに韓国に入るのですが、韓国語では漢字の中古音では piet だった「筆」を pil(ピル)と発音することが示すように、語末の t は lや r に発音に変わるため、「刹」は 古代の韓国語では tjér(チェル)と発音されました。ハングルで表記すると 톌 ですが、「刹」は現在の韓国語では찰(チャル)と発音されています。
一方、語尾が子音で終わる言葉がない日本では、語末の子音に母音を加えずにはおれません。英語の cat(キャッ)であれば、「キャットォ」と発音してしまうわけです。このため、「刹」は tjér でなく tjérʌ (チェラ)と発音されたのであって、これが「てら」に転じたのです。
「刹」は、今でも「古刹」「名刹」「禅刹」などといった形で寺を指す言葉として使われています。これは中国では隋唐以前から既にそうなっていました。寺院の建物で最も尊いのは仏舎利(釈迦の遺骨)を収めた塔であって、その塔の上端で光輝いている相輪はまさに塔を象徴するものであったため、それを表す「刹」の語がやがて寺院全体を指す言葉となっていったのだ、というのが辛嶋さんの推測です。
刹柱を立てる儀式
五重塔や三重塔において最も重要なのは中心となる木の柱です。インドであれば、塔は土饅頭が基本であって、煉瓦で覆ったりします。中国では木造の塔が建てられたほか、煉瓦の塔もたくさん建立されました。これに対し、日本では、太い木材を心柱とした木造の塔がほとんどです。この柱を「刹柱[せっちゅう]」と呼ぶのは、上記のような経緯によります。
古代にあっては、柱の上端や根元に穴をあけて仏舎利を収め、その柱に宝珠や相輪などの装飾をほどこすだけのことも良くありました。本格的な木造の塔を建設する際は、柱を据える大きな礎石に穴を開けてそこに仏舎利や宝物をおさめ、その柱を風雨から保護するために建物で囲んだのです。壮麗に見える五層や三層の建物は、実は刹柱の添え物にすぎまません。
ですから、寺の起工式では刹柱を立てる、ということになるのです。これを立てると、この土地は寺のものであって、これから造営を始めるのだということを周囲に示すことになります。刹柱を立てるのは、中国でおこなわれた儀礼が、百済経由で日本に入って来たものですが、それが定着したのは、受け入れる素地があったためでしょう。
森が豊かであって巨木が多い日本では、特別な木については霊木としてあがめてきました。ですから、太い柱をご神体としている神社もありますし、各地の神社で祭りの日に大勢で太い柱を立てる神事などがおこなわれているのです。
仏教振興がはかられた推古天皇の時代にあっても、推古28年(620)に欽明天皇の陵を白い砂礫[されき]で覆った際は、横に土を盛って山を作り、豪族たちに命じて柱を立てさせており、倭漢坂上直樹[やまとのあやのさかのうえのあたい]の柱が最も高かったため、当時の人は坂上直のことを「大柱の直」と呼んだと『日本書紀』に記されています。
海外の風習の中には、日本で受け入れられたものとそうでないものがありますが、サンタクロースが大人気となったのは、大きな袋をかついで人々に福を授ける大黒天の存在があったからこそです。さらに、その大黒天を福神とする信仰が広まったのは、蓑笠をつけて村々をまわる来訪神の伝統によるものでしょう。
木の柱を軸とする五重塔や三重塔は、海外から導入された仏教の文物でありながら、霊木に対する日本人の宗教心の古いあり方をとどめているように思われます。古くなって塗りが剥げた仏像にしても、金ぴかに修復せず、木の肌が見えるのを尊ぶのも同じ心情によるものです。
ただ、「てら」は古くからの和語のようでありながら、実際にはそうではないことは、無暗に日本の伝統を強調するのは危険であることを示しているとも言えるでしょう。