最近AIが人間言語ではない独自言語をつくったじゃないですか。

――そんなニュースがありましたね。

 そしてその言語をプログラムによって人間言語にも翻訳できるようにしたんだそうです。そのしくみがどういうものかは分かりませんけど、AIの言語でもわれわれは翻訳できるんですから、それを拡張すれば、石の言語、虫の言語、星の言語……、いろんな言語を自動翻訳できるんじゃないかって思うんですよね。

 逆に言うと、われわれはどこかに「自動翻訳機」を持ってるはずだと。それを最大限に働かせることができれば、われわれ自身の翻訳能力を高めることができる。空海や宮沢賢治、かつての詩人や思想家といった人たちはそういう翻訳能力を高めた人だと思うんですよ。宇宙言語の。

――なるほど。日本語の五十音だったり、七十五音だったりっていうのも宇宙言語の翻訳の一つだっていうことができるわけですね。

 文化的に固定されたパターンなわけです。

――面白いです。

 日本語なんて一つのパターンにすぎない。言語世界はもっと自在っていうか、多様なものだと僕は思うんですよ。そうじゃないと草木言語なんか成立しない。

 草木言語っていうのは、よく使われる言葉でいうとテレパシーみたいなものだと思うんですね。テレパシーというのは言語を交わすことなく理解し合うということですよね。以心伝心みたいな。もしも心でもって心を伝えることが可能なら、その心が伝わる伝わり方にもやっぱり構造があると思うんですよ。

 AIの開発なんかで認知の研究がさらに進めば、その構造はいずれ解明される可能性もあるんじゃないかと。私は昔から異種間コミュニケーションとか多次元コミュニケーションに関心があるんですけど、言語も異種的に、多次元的に開かれてると思うんです。われわれの次元の言語だけじゃないだろうと。

――日本語とか英語とかっていう次元だけではないってことですね。

 もちろんそれも一つ一つの世界ではあるけれど、それに限定されるものじゃない。日本語や英語っていうのはある一定の認識のパターンなわけです。だから、その認識パターンを外すこともソフト転換することもOSを変えることもできるはずだと思います。

――ということは、まったく新しい言語をつくることもできると。

 ザメンホフがエスペラント語をつくったときに関心を持ったのが、宮沢賢治と出口王仁三郎です。彼らがなぜ世界言語みたいなエスペラント運動に邁進したかというと、言語はもっと宇宙的だという一例をザメンホフが提示してくれたと思ったからでしょう。われわれはいろいろな回路を経ることで、そういう世界言語、宇宙言語の世界に行き付くことができるという思いがあったんだと思います。

――宇宙言語の世界って、何かぞくぞくしますね。

 言語の捉え方自体が彼らにとっては宇宙なんですよ。宮沢賢治も出口王仁三郎も。宇宙は言語で、生命も言語なんですよ。そこに生命と非生命の区別はない。存在世界はすべて、生命・非生命が包含して一体になっている。それを神と言ったり、仏と言ったりしてきたんだと思います。

主語と日本語

――出口王仁三郎の「八意(やごころ)的的言語観」というのもすごく面白いと思いました。一つの言葉で一つの意味を表すのではなく、言葉を重ねていくことで新たな意味の地平を開くっていう。

 詩の手法もそうですよね。掛詞や比喩、メタファー、メトニミー、アナロギア、アナロジー、寓話……。さまざまな方法がありますけど、基本的には重ねですね。重ねやずらし、つながらないもの同士をリンクさせることによって言語的な揺らぎというのか、通常の意味世界に違う補助線を入れて見ることができる。詩人や宗教家は、哲学者もそうだと思うんですが、そういうものの見え方を示すことができると。

――それと比較するとユダヤ・キリスト教の言語観、律法的言語観というのは一義的ということでしょうか。神の言葉は絶対であり、かつ真理は一つなので、言葉の意味も厳格に定義されているというか……。

 図式的にいうとそういうふうに受け取られる一面もあると思うんですけど、私は旧約聖書の神が光あれと言ったら光があったというのも、宇宙と言語が一体化している、根源言語を持ってるという点では、言霊の世界と隔たりがないと思っているんですよ。

 言語と存在世界はひとつながりの中にあるのであって、存在世界の一部分が言語なのではない。言霊の世界、草木言問う世界において言語は存在であり、生命なんです。神が光あれと言ったら光があったというのも、言葉と存在と生命が全部つながってるわけじゃないですか。そういう世界観は洋の東西を問わずあるのではないか思っています。

――なるほど。

 ただ、現実の歴史における言語というのは独自の文化的バイアスを受けて、ヘブライ語になったり、ギリシャ語になったり、日本語になったりして、それぞれの特質を生んできました。たとえば文法構造にしても、主語と述語の関係をはっきりさせなければいけない言語体系と、日本語のように主語、あるいは主体性といったものが不明瞭であっても伝わる言語体系があります。

――日本語は主語がなくても通じるって、よく言いますよね。

 じゃあなぜそうなのかっていったときに、西洋の言語における主語と述語というのは非常にはっきりとした関係で結ばれていると思うんです。律法が正にそうですが、ある種の倫理的な関係というか、「我」がするのか、それとも「汝」がするのかがとても重要。

 それに対して日本では主語がなんであってもいいというか、すべてが主語になりうるわけですよ。八百万(やおよろず)ですから。すべてのものが主語になって語り始め、それをつないでキャッチすることができる。アニミズムといえば正にアニミズム的なものが、そもそも日本語の根本にあるんじゃないでしょうか。

――面白いですね! 日本語は草木や風や星が語るということを前提にしている。私の語ることは私の独創ではなく、それこそ宮沢賢治が言うように、世界が語っていることだと。それならわざわざ「私」と言わないものうなずけます。

 つまり、私という主体が狭くないということだと思うんですね。私が複数的にあるというか、少なくとも私=自我であると思っているわけではない。もっとあいまいで、ゆるくて、入れ替わり可能みたいな。古代人の多くはきっとそういう認識だったんじゃないかと思うんですよね。

――現代の私たちが考えているように確固とした自分がいて、他者がいて、世界があるというのではなく、さまざまなものが混然一体となっていたと。

 混然一体。今だったらそういう言い方になっちゃうでしょうけど、もっと全体を全体として見ると、混然ではなくて整然だったんじゃないですかね。

――整然、ですか?

 「整然一体」。われわれはどうしても言語的に分節して考えるので、異質な要素が混ざって「混然」というふうに見てしまうけど、でも、彼らの世界は僕は混然ではないと思うんですよ。混然ではなくて、全体じゃないでしょうかね。

――なるほど。要素を切り出す分節線がそもそもないわけですもんね。生命も物質も言霊もひとつながりのもとして、全体として存在していたと。

 なのでむしろ整然と、そしてクリアな世界だったんじゃないかと思います。

(取材日:2018年11月28日)