――昔からあるものだと思っていた国語が、実は明治期に、人為的につくられたものだったというのはけっこうな驚きだったんですけど、国語という概念自体が生まれたのはいつ頃なんですか。
国語の必要性は、明治の初めにはすでに言われていたのですけど、その概念が定着し始めたのは19世紀の終わり、日清戦争の前後からです。国語というのは単にその国の言葉というだけでなく、国語によって「国民」を統合し、植民地支配にも深く関わりをもっています。ですので国語を理解するには、近代という時代を振り返ってみることが重要かもしれませんね。
近代以前までは、人びとがどんなことばで話しているかということについて、統治する側はあまり関心がありませんでした。というのは、ヨーロッパでも東アジアでも、近代以前を生きた知識人や支配層は、「話しことば」と甚だしくかけ離れた「書きことば」を所有していました。ヨーロッパにおけるラテン語、東アジアにおける漢文がそれです。その一方で民衆は地域や文化によって多様な言語生活をしていました。
ところが、フランス革命以降「国民国家」というものが誕生すると、言語が「国民」を基礎付ける重要な要素となります。それには、国民国家を担う言語体制を作っていかなければなりませんでした。そこで、言語を通して国家への忠誠心をかき立てるためのイデオロギー装置を生成すると同時に、規範化、同質化などの言語的近代化を実行していったのです。
――国語は、国民国家というシステムを構築し、機能させるためのものだったんですね。
日本は東アジアの中でいち早く近代化を進めていった国ですが、そのモデルになったのは西ヨーロッパです。当時の日本は地域や社会階層によって話していることばがかなり違っており、また、話しことばと書きことばの間にも大きな隔たりがありました。そのうえ、漢字と仮名をめぐる文字問題もありました。こういう言語状況に気づいた当時の国家政策に関わった官僚や知識人たちは、かなり危機感を抱いたわけです。はたしてこれで、国民国家を支えることができるだろうかと。
――それで、改革せねばならんと。
当時はまだ、厳然とした「国語」という概念が定着していなかったんですね。「国語」ということばも生硬なことばでした。「国語」ということば自体は、中国の古典の中にもありますが、しかしそれはいま私たちが使っている国語の概念とは異なったものです。とにかく、近代国家としての日本を担う言語、それによって国民を統治し、また均質な日本国民を教育する言語を整備する必要があり、そのために多くの知識人をヨーロッパに留学させたのです。
その中に、後に東京帝大の主任教授を務める上田萬年(1867年―1937年)という人がいました。上田は1890年9月から1894年6月までの約3年半の間ヨーロッパに留学し、おもにドイツのベルリン大学とライプチッヒ大学で近代言語学を学びました。また全ドイツ言語協会の活動のあり方を見ながら、言語と国家の強い結びつきに諭されたようです。
日本にとってドイツは、さまざまな面で近代化の見本になる国でした。部外者の目からみると、日本とドイツは感性的にも共通しているものがある感じがするんですね。これはあくまでわたしの個人的な意見ですが。
――なるほど。
上田萬年が留学を終えて帰国したのは1894年6月なのですが、時はまさに日清戦争開戦の前夜でした。日清戦争が始まったのは、その年の8月1日ですから、日本全土で国民意識が高まっていた時です。上田は同年10月に「国語と国家と」という臨場感あふれる講演を行いますが、そこで「日本語は日本人の精神的血液」と言いながら、国語と国家の有機的・自然的結合を熱烈に訴えます。その一方、いまだ「国語」の真の姿が認識されていないことを強調します。
こうして上田は彼の理想とする、近代言語学に基づいた「国語」を現実化していかなければならないと主張しました。