前回は、禅僧と言うと「喝!」と叱り飛ばすようなイメージがあるものの、意外にも望郷の念にかられる面もある例を取り上げました。ただ、一般の人が禅僧と聞いて思い浮かべるのは、頓知ばなしでおなじみの一休さんかもしれません。

 一休宗純(1394-1481)禅師は、実際はかなり複雑でひねくれた人でした。皮肉なユーモアを好んでいたことは事実であって、生前から様々な逸話が流布していたようです。ただ、一休咄として伝えられているものには、実は元ネタがある場合が多いのです。

飴は毒

 たとえば、和尚さんが水飴を壺に入れて自分だけ食べ、小僧には「これは毒じゃ。食べたら死ぬぞ」とおどしていたところ、和尚が外出した際、小僧が全部なめてしまい、帰ってきた和尚が怒ると、「和尚様が大事にしておられた鉢を割ってしまったため、死んでお詫びしようと思い、毒をなめたのですが、死にませんでした」と答えるという笑い話がその一つです。

 狂言では「附子(ぶす)」という毒薬の名が題名となっているこの話は、韓国では「毒の串柿」という形で伝えられている由。日本と韓国に類話があるということから容易に想像できるように、この話は元々は中国の笑話です。

 この話が見える最も古い文献は、『啓顔録』です。この書物は、滑稽な言動で有名であった隋の侯白(生没年不詳)が書いたとされていますが、侯白以後の話も含まれていますので、実際には唐代初めあたりにまとめられたものと推測されています。

 『啓顔録』では、蒸しパン数十枚とひと瓶の蜜を買ってきて、蒸しパンに蜜をつけてこっそり食べた和尚が、残った蒸しパンを鉢に入れて弟子にしっかり見張るよう言いつけ、「瓶に入っているのは毒薬だから飲めば死んでしまうぞ」と言って外出します。

 弟子が蒸しパンを二つだけ残してすべて食べてしまうと、帰ってきた和尚がそれを発見して怒ります。弟子は、「蒸しパンがいい匂いがしたので、つい食べてしまいました。和尚様に怒られると思い、毒薬をなめてみましたが、不思議に何ともありません」ととぼけます。

 そこで和尚が、「どうしてあんなにたくさんの蒸しパンを食べることができたのじゃ」となじると、弟子は、残った二つの蒸しパンをあっという間にほおばり、「こんな風にしてたいらげたのです」と言ったため、和尚が怒って怒鳴ると弟子は走って逃げ去った、と記されています。

 敦煌から発見された『啓顔録』の写本によると、この話を含めた冒頭の話の多くは仏教関連の笑話になっており、その中には、酒に関する次のような話も載っています。

 ある老僧は、仏堂で多くの僧たちと読経しているとのどが乾いてしまうため、合い言葉として鈴を「蕩(たん)朗(らん)鐺(たん)、蕩朗鐺(チンリンチャン)」と鳴らしたら温めた酒を持って来るよう弟子に命じ、いつもそうさせていました。ところが、ある時、弟子は温めることを忘れ、冷たい酒を持っていってしまいました。

 その酒を飲んだ老僧が冷たいと文句を言うと、弟子は、今日の鈴の音はこれまでの音と違い、「但冷打(たんろんたー)、但冷朾(冷やだけ飲む、冷やだけ飲む)」と聞こえましたので暖めませんでしたと答えたため老僧は笑ってしまい、これを許しました、という落ちです。

 ここでの「但」は「ただ」の意、「打」は「飲む・食べる」の意の俗語です。僧侶の飲酒は当時は当たり前とされていたためか、この話は酒を飲む老僧を批判してあざ笑う笑話ではなく、弟子の頓知を面白がる話となっています。

卵は茄子

 こうした仏教がらみの話が多い点から見て、『啓顔録』は、冗談を連発して聴衆を飽きさせない説法師などの冗談ネタ集として使われていたものと私は推測しています。興味深いのは、おなじみの「和尚と小僧」譚のパターンが、唐代の初めくらいの時期に既に確立していたということですね。

 その代表がこの「飴は毒」型の話ですが、諸国の笑話を検討した韓国の琴榮辰(くむよんじん)さんの『東アジア笑話比較研究』(勉誠出版、2012年)によれば、この話から派生した「卵は茄子」型も広く普及し、それぞれの国なりに変化しているそうです。

 どういう話かと言うと、和尚が卵をこっそり食べており、それを知っていて暴露したくてたまらなかった弟子が、ひねった形で言うというものです。

 たとえば、冗談好きであった無住(1227-1312)の『雑談集』巻二第四話の「卵は白茄子」では、ある上人がいつも卵をゆでて食べ、小法師には茄子漬と称していたところ、それを知って何かのついでに言いたいと考えていた小法師は、鶏が明け方に鳴いた際、「和尚さま、茄子漬の父が鳴いております。お聞きになりましたか」と語った、と記しています。

 これが韓国の笑話集である『村談解頤』となると、小さな寺の僧侶がいつも卵を食べており、僧侶になる前の段階の年若い沙弥に、「お師匠さまが食べておられるのは何ですか」と尋ねられ、蕪の根じゃとごまかして答えていたが、ある時、寝過ごした僧が沙弥を呼び、「今は夜のどれくらいか」と聞くと、沙弥は「夜はふけおわっており、蕪の根の父がもう鳴きました」と答えた、となっています。

 さらに面白いのは、琴榮辰さんが触れていないベトナムの例です。犬食が普及しているベトナムの民話では、寺の前で二匹の犬が喧嘩していて騒がしかったため、犬肉のことを豆腐と称して隠れて食べていた和尚が、弟子にあれは何だと尋ねると、弟子は「村の豆腐が喧嘩しているのです」と答えた、という形になっていることでしょう。

 このように、笑話は国を超えて伝わっていき、その国の風俗に合わせて変わっていくものなのです。問題は、こうした話が単なる笑話でなくなっていくことでしょう。たとえば、中国でも韓国でもベトナムでも、近世になって仏教を排撃する朱子学が広まっていくと、頓知を楽しむ笑話であったものが、愚かで欲深な僧尼をあざ笑うことを主とした話になっていきます。

 もう一つの変化は、僧侶に関する多少色っぽい笑話が、好色な僧尼の露骨な艶笑譚になっていく場合があることです。これは、朱子学の普及によって道徳が強調されるようになり、息苦しさが感じられる世の中になったことが背景でしょう。

 そうした社会では、道徳堅固な人物が手本とされる一方で、道徳など無視して欲望のままに生きる人物がうらやましがられるものの、そうした人物を賞賛することはできないため、文学では好色な悪僧の不道徳な振舞いといった形で描くのです。裁判の記録という形での作品も少なくありません。

 何しろ、隋唐頃までは優秀な人が僧侶となったのであって、「一人出家すれば、九族、天に生まる」と言われたほど、出家が尊重されていたものが、明清時代になると、「一人出家すれば、九人の人妻が妊む」という言葉が生まれるほど、僧は無知で欲深で好色な存在とみなされるようになってしまったのです。

 これは日本との大きな違いです。冒頭で触れた一休は、良く知られているように、酒を飲み、晩年に至るまで女性と関係を持ち、交情の様子を大胆な漢詩でうたいあげています。それなのに、日本では非難されず、堅苦しい規範に縛られない自在な禅僧として尊敬され続けてきました。一休は、頓知小僧の面だけでなく、酒好き女好きの和尚としての面も持っていたのに、長らく親しまれてきたのです。