2024年度は一年間の研究休暇(「サバティカル」と呼ばれます)をもらいました。サバティカルは大学で継続的に働くことで得られる制度で、その期間は授業や会議の任務がなくなり、研究だけに専念できます。私が北海道大学から日本大学に異動したのは2019年4月のことでした。日大文理学部では、5年間働くとサバティカルの権利を行使することが可能になり(ただ実際に取得できるかどうかは諸々の業務状況に左右されます)、幸運にも私は2024年からの一年間を研究のための時間に使えることになりました。

 サバティカルの前半は本を書く時間に宛てました。『エスノグラフィ入門』(ちくま新書)を9月に刊行できました。後半は3ヶ月ほどヨーロッパに行って、最新の研究動向に触れてきました。現地では友人の社会学者たちと食事をしたり、家に泊まらせてもらったりしながら研究について語り合ったのは、とても良い時間でした。

 2024年の年の瀬に帰国してからは、次に書くことになっている本に関する英語文献を読んでいました。また、その期間には北海道の浦河町を訪れる機会が到来しました。浦河町は漁師の街として有名です。JRAもあり馬産地としても名が知られています。浦河町では「浜」と「山」という呼び方がなされていて、「浜」は漁師、「山」は馬関係者と農家の居住地域を意味します。

 「浜」に生きる漁師である深澤洋一さん(72)、志乃さん(72)、英治さん(50)にお話をうかがったので、その内容をこの第1回では紹介します。

[写真1]深澤洋一さん(中央)、志乃さん(右)、英治さん(左)

漁師と農家と鉱夫

 深澤洋一さんは、代々船頭を務めてきた家に生まれ、中学を卒業後に漁師になりました。当時から漁師を継ぐ人は少なくなりつつあり、120人近くいた同級生のうち、漁師になったのは5人ほどだったようです。この頃は200海里水域が設定される前で、12海里の領海の外においては自由に漁をおこなえる「公海自由の原則」の時代でした。洋一さんは北洋、すなわちロシアまで出かけていき、そこで漁をおこないました(浦河町ではロシアだけでなく、アラスカまで行った漁師の方々の逸話も耳にします)。北洋に出かける船は、浦河ではなく根室を拠点にしていました。北洋漁業に行く際には、浦河から根室まで舗装されていない道を8時間ほど運転し、そこから船に乗ってロシアに向かいました。

 志乃さんは北海道北見市の農家の出身です。洋一さんとはお見合い結婚でした。漁師街に嫁いだ志乃さんは、海のにおいが嫌だったそうです。「生臭い」からです。5年ほどは、においに慣れませんでした。志乃さんは朝早く漁に出る夫を支えるために、超早起きで朝ごはんを支度し夫を送り出しました。

 志乃さんが嫁ぐことになったのをきっかけに、志乃さんの北見の実家は農家をやめたそうです。実家で農家を手伝っていた弟は、その後、釧路の太平洋炭鉱で働くようになります。ツテはありました。農家の人びとは冬の農閑期に炭鉱に出稼ぎに行っていた経緯があるからです。2月まで働いて3月には北見に戻り、ビートの種植えなどを開始していたのでした。だからそのルートを辿って、弟は鉱夫として働くようになったのです。

 浦河の漁師が、北見の農家の娘と結婚し、北見にいた弟は釧路の炭鉱で働くようになる。漁師と農家と鉱夫。この3つの職業は、深澤さんたち家族の歴史に登場すると同時に、北海道、さらには近代日本を根底から支えてきたものでもあります。

遠洋漁業

 志乃さんは、遠洋漁業に向かった洋一さんがロシアから根室に戻ってくるタイミングで、漁の間の洗濯物などを回収して届ける役割を担いました。根室に帰港しても、浦河に戻らず、そのまま再びロシアに向かうため、漁師の妻たちも荷物を届けに浦河から根室まで長時間の運転をおこないました。志乃さんは、若い頃、たくさん長距離運転をしたので「もう運転をしたくない」と語ります。

 北洋での漁は、息子の英治さんも経験しています。小樽水産高校を卒業してから漁師になった英治さんは、父と同様に、北洋に行きました。英治さんによれば、三週間の遠洋漁業の生活は過酷で、1日1食、睡眠時間は毎日2時間でした。

 ロシアでの漁は、魚が「かかってかかって仕方ない」くらい獲れます。しかしながらポイントは、魚がかかることにあるのではありません。そうではなく「バラす(外す)」のが大変なのです。かかった魚はすべて持ち帰るわけではなく、市場で値のつく魚−トキシラズや紅鮭−だけを水槽に入れて、残りは海に戻すのです。青マス(カラフトマス)などは値段が安いので、バラして「投げる(捨てる)」ことになります。

 漁師の仕事は、大量に獲れる魚を、ひたすらバラすという作業になります。安い魚を投げて、高級魚のみを船に残す。獲ってはバラすをひたすら繰り返す遠洋漁業。魚は網にかかり続けるため、2時間だけ寝て、残りの時間はすべてこの作業をおこなうのです。魚種を問わなければ、船の水槽は3日で満タンまで魚が獲れる。ただ燃料代と差し引いて儲けを出そうとすると、高級魚だけで水槽を満たす必要があるのです。

 北洋に行くと痩せるそうです。1日1食で働き続けるのだから、それはそうだろうと思います。また1日2時間の睡眠が三週間続くというのも過酷です。そして2時間経ったら非常ベルが鳴って起こされる。英治さんは「3日徹夜でいいならその方が楽」と言います。船上で眠るので、寝床は「棺桶とカプセルホテルの間」くらいの広さです。遠洋漁業では、体調を崩したとか突き指をしたとかは休む言い訳にはなりません。2時間寝たら働け。それが続く三週間です。

昆布取りと昆布拾い

 二〇〇海里水域が設定されてからは遠洋漁業ができなくなり、近海での漁にシフトしました。浦河の漁師はいろいろな魚を獲って生活しています。冬から6月くらいまではタコ、7月になったら昆布、お盆になったらイカ、冬になり始めるとタラといった具合です。時々で獲れるものを獲って暮らしてきました。仕掛けの作り方は、各家で異なります。それぞれの家が経験と工夫にもとづいて漁をおこなう。そうした知恵比べのようなところが、各漁師たちの間にはあります。

 浦河は太平洋沿岸に位置する街です。内海や湾内ではないため、波はとにかく激しい。よってこの地では養殖はできません。日高昆布は日本全国で有名ですが、あの昆布は天然のものです。浦河の街を車で走ると、車が潮で覆われるくらい波と風が激しいです。札幌に住む人たちは「浦河に行ったら洗車しないといけない」と口にするくらい、そこは波の激しい地域なのです。

 昆布は浦河の漁師にとって命綱です。「昆布は身を助けてくれる」と言われていて、昆布取りが解禁された時期には、漁師たちは一人乗りの船で昆布を一日4〜5時間取ります。これが「昆布取り」です。船を必要とするので、男性の漁師の仕事になります。英治さんは昆布取りの作業中におにぎりを20個くらい食べます。それくらい体力を消耗するのです。

 朝6時に昆布取りの開始を告げる旗が海に上がると、漁師たちは船を走らせてそれぞれが知っているスポットに向かいます。どのスポットにたくさん昆布があるかは、経験とデータがものを言います。最近ではよいスポットをスマホの地図アプリにブックマークしておくのだそうです。そのスポットは、次の年になってもよい昆布が取れる箇所なので、スポット情報を数多く持っておくことが重要になります。

 昆布取りは「あきらめない」根性がものを言います。多くの漁師が取っていくので、次第に海から昆布が少なくなり、英治さんの言葉では「薄くなっていく」のです。質も悪くなっていく。それでも、その薄くなった漁場で昆布を取り続けるという根性が、漁師には必要になるのです。すぐに帰ってこない。薄くなっても、もうひと踏ん張りして取り続ける。「根気よく取った人の勝ち」です。足場の不安定な船から身を乗り出して、昆布を両腕を使って船に上げ続ける。相当に肉体を酷使する作業です。そこを踏ん張れる人が、昆布をたくさん取れる漁師となります。たくさん取ればたくさん稼げる。

 昆布については、もうひとつ「昆布拾い」という作業もあります。これは「昆布取り」とは違います。砂浜を歩きながら、海岸付近の昆布を集めるという仕事です。船を使わないので、女性が多く従事します。海女さんのようなイメージでしょうか。昆布拾いといっても、なかなか過酷です。半身が海水に浸かった状態で昆布を拾います。荒波に流されたときのためにライフジャケットを着て作業をします。

[写真2]浦河の海

 浦河には未亡人の方が多くいらしゃいます。「未亡人」という言葉は、深澤さんご一家を取材する中で何度も登場したものでした。漁師の男性は命がけで漁をします。漁の最中に亡くなった人はたくさんいます。だから夫婦喧嘩をしても、翌朝に夫が漁に出る際には、妻はいってらっしゃいの一言をいう慣わしが地域にはあるそうです。また、根室などの漁港までの長距離運転中に交通事故で亡くなる方もいます。

 漁に出て戻ってこない船があると、海岸から「漁火(いさりび)」という火を燃やして知らせます。死がすぐそばにある日常。とりわけ、おだやかな湾内や内海での養殖ではなく、浦河の漁師のように太平洋の荒波を漁場とする人びとにとっては、死は日常と隣り合わせなのです。

 そうして夫を失った未亡人の方々が多く従事するのが、この昆布拾いです。昆布を拾って生活の糧を稼ぐ。だから「昆布は身を助けてくれる」のです。自然の恵みである良質の昆布は、人びとが生活する上での重要な換金海産物です。もちろん昆布拾いは誰でも自由にできるわけではありません。漁業協同組合から昆布を拾う権利が与えられた人のみがおこなうことができます。

 昆布は商品になるまで手間がかかります。「米は農家の人びとが88回手をかけるという理由から米という文字になっているが、昆布も相当に手がかかる」ことを、洋一さんは強調します。取るのに1回。揃えるのに2回、干すのに3回、集めるのに4回、切るのに5回、洗うのに6回、潰すのに7〜8回、と言います。最低8回は人間の手のかかる品なのです。「昆布は面倒くさい」のです。この作業を家族で手分けをするなら分業が可能です。ですが単身の女性がこれらすべてを一人でおこなうならば、膨大な労働量になります。それでも浦河では、単身の昆布拾いで生計を維持している人が多数います。

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 深澤さん一家の話を聞きながら、北海道で漁師として生きることの過酷さとプライドを感じました。漁師だけではありません。農家や鉱夫の話までが、家族の歴史にシームレスに接続されていきます。未亡人が海に浸かって昆布拾いをする光景も目に浮かびます。

 洋一さんの大きくはっきりした声は、72歳という年齢を感じさせない強さを備えていました。現役の漁師である洋一さんは、トラックの乗り降りの際に左肩の腱を損傷してしまい(トラックを運転すればわかることですが、乗り降りの際には左手で車体のアシストグリップをつかみます。そのため左肩に慢性的な負荷がかかるのです)、近く手術をすることになっています。手術が無事に終わり、肩の痛みが消えることを願うばかりです。

 

 以上、第1回は浦河町の訪問について書きました。第2回は4月に大学の新学期のことについて記す予定です。では来月もよろしくお願いします。

[写真3]深澤さんの自宅前で乾燥される昆布