今考えていることを月に1・2回書いてみませんかというお誘いを受けて、すぐに浮かんだのが「他人事はどこにもない」という言葉でした。

 私は長い間(実際の年数を書くと60年ほどになり、自分でも、えっこんなに長くと驚いてしまうほどですので、ぼかした方がいいかなと思いまして)、「生きているってどういうことだろう」と考えてきました。30年ほど前からは「生命誌」という新しい知を創ることに努めています。生きものは考えれば考えるほどわからないことがふえる一方、日常の中であっそうかと思うことも多いので、楽しみながらの「知の構築」に日々努めています。

 考えは、社会の動きにも影響されます。今年は2021年、忘れもしない2011年3月11日の東日本大震災から10年です。あの時、これで社会が変わるのではないかと直感したことを思い出します。福島県大熊町にある東京電力福島第一原子力発電所を津波が襲い、関係者が起こるはずがないと言い続けていた事故が起きました。事故が決して起きないなどということはあるはずがないのですが。そこで、自然・人間・科学技術の関係を生命誌の視点から考え、やらねばならぬことを『科学者が人間であること』(岩波新書)としてまとめました。科学と自然、人間と技術などと並べて両者の関係を考えるのではなく、科学を進める人、つまり科学者が、自然の一部である人間としてどのような世界観を持ってどのように生きるかということが大事だと思ったからです。

 それから10年を経た今、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックという思いもよらないことが起き、世界中の人が外出もままならない生活を送っています。東日本大震災の時は起こるはずがないと書き、今度は思いもよらないと書きました。原子力発電所は人間がつくったものであり、ウイルスは自然界のものなのでこんな風に書き分けましたが、いずれも現代人が、日々の暮らしは思い通りに動いてあたりまえと思っているために出てくる言葉です。ここに現代社会を生きる私たちの考えの片寄りがあります。

 実は、東日本大震災での事故も新型コロナウイルスと同じように自然が引き起こしたものです。日常身のまわりで使っているものはほとんどが人工物、つまり私たち自身がつくったものです。それは原則私たちの思い通りに動きます。もちろんそれだって壊れたり、うまく動かなかったりはしますけれど、通常は思い通りになると思って使っています。ところが、自然はそうはいきません。遠足や運動会の日に限って雨降りになったりしませんでしたか。テルテル坊主に願いをこめたのに、朝起きてみたら雨。ダメじゃないかとテルテル坊主に怒りをぶつけてもしかたありません。私の場合、学生時代からの仲間でテニスをしようとすると必ず雨になるというジンクスがあり、小雪の中で雪かきをしながら決行したこともあります。

 横道にそれましたが、「思い通りになるものではなく、思いがけないことだらけ」という自然と向き合って生きるという意識は、日常から非常時まで大切にしなければなりません。

 東日本大震災の後、これで社会が変わると思ったと書きましたが、10年経った今、そうならなかったと言わざるを得ません。直接被災しなかった人は、忘れているようにさえ見えます。そこへ新型コロナウイルスのパンデミックです。パンデミックですから、世界中の人が関係者というところに特徴があります。一人一人が手を洗い、マスクをし、密を避けるという日常の行動を責任をもって行うことが社会のありようをきめるのです。つまり今度は、「科学者だけでなくみんなが(自然の一部としての)人間であること」、つまり「人間が人間であること」がテーマになります。

 あたりまえ過ぎるくらいあたりまえですが、ていねいに考えていくと大事なことが見えてきます。もう一度確認します。自然と人間、人間と技術、人間とウイルスなどと間に「と」を入れて考えると、自然、人間、技術のそれぞれが独立したまったく別のものになってしまいます。そのように考えたのでは、「人間が人間であること」という課題を考えることはできません。人間は自然の中にいますし、技術は人間がつくったものです。人間とウイルスも自然の一つとして関わり合っていることは、生命科学研究で明らかになっています。これらについて追い追い考えていかなければなりません。このように、すべてを人間、つまり「私」が関わっていることとして捉えるのが、これから考えたいことです。

 今、緊急の課題としている地球環境問題を例にとりあげますと、多くの人がそれを「他人事」と考えているのだと、先日ある新聞記者に教えられました。大気中の二酸化炭素は増え、海中のマイクロプラスチックの増え方はそれ以上と言われても、今の生活は当分続けられそうだ。大変なことが起きるのは先の話だろうとなり、自分とは無関係と考える人が少なくないと言うのです。そこで「他人事」になるわけですが、とんでもない話です。環境の問題は、今を生きる一人一人の生き方、考え方がその行方をきめることなのです。まさに私のことなのに、どうしてそんな風に言えるのですかとわたし(この文では、一人一人のことを私として考えますので、その時は漢字で書きます。この文を書いている私、つまり中村桂子のことを言う時はわたしと平仮名にして区別します)は疑問に思うのです。

 わたしがそのように考える理由は、長い間、生命誌という生きものを見つめる分野に携わってきたために、「人間が人間であること」という時の人間は、「生きものであり、自然の一部である」という事実を踏まえているからです。この連載では、これを基本に置き、「私たち生きもの」という意識から生まれる世界観(つまり生き方)を考えていきます。

 通常、私たちと言えばまず家族や友人から始まる人間関係として考えるものですが、そこから入ると現代社会の価値観が入り、家族とは何かという社会的問題から考えなければなりません。通常私たちという言葉はまず家族や友人、更には地域の人々から始まり、日本人という私たち、地球上の人類という私たちというように意識が広がっていくところを捉えていくものでしょう。

 最初に書きましたように、生命誌としては「生きものだって私たち」ですというところに重きをおきますので、ここではまず、「私たち生きものを考える」ところから入ります。その考え方で生きものの一つとしての人類を考え、人間社会も見ていくという順番で進めることによって、現在の社会で常識とされている、一律の価値観の中での競争に勝つことを求めるとか、効率よく事を進めることでよりよい成果が出せるというような価値観に縛られずに自由に考えることができるという利点があります。生きものから始めると、一番身近な家族に到達するまで長丁場になりますが、ゆっくりと考える時間におつき合い下さい。

 日常と言えば毎日の食事、子育て、学び、遊び、病気や介護などなど、やらなければならないことがたくさんあります。これはどれも、私たちが生きものだからこそ日々行っていることですから、話を進めていくにつれてこれらの課題が出てきますので、その都度生きものという視点で考えていきます。

 ところで、地震や津波や新型コロナウイルスを例に、「思い通りになるものではなく、思いがけないことだらけ」というのが自然であると書きました。人間は生きものですから、これから考えていく人間も思い通りになるものではなく、思いがけないことだらけとなりそうな気がします。これはちょっと面倒なことですが、一方で、きまりきったことばかりよりもこの方が面白いという見方もできます。一筋縄ではいきそうもない生きものとしての人間を考える旅です。

 この旅の案内図を書きました。私はいつも私たちの中にいます。だから、私にとって他が関わるものやことはすべて関わりあり、つまり「他人事はどこにもない」という図です。

 因みに、新型コロナウイルスの場合、感染しても無症状である場合が少なくないことから、手洗い、マスク、密を避けるなどの行為は自分の身を守ると同時に他人への感染を抑えるために必要なこととされます。自分が無症状の感染者かもしれないからです。そこで、利他の重要性が指摘されています。ここでは、そもそも私は私たちの中にいるのであり、それを基にした行動は利己でもなければ利他でもなく、私たちの中の私としての行動に他ならないというのが重要なポイントです。

この図はわたしが描きましたので中村桂子と名前が入れてありますが、ここにはお一人お一人御自分のお名前を入れてください。