私たち生きものの仲間でありながら、人間としての独自の生き方を始める中、生活の基本である食べることと関わってどうしても浮かんでくるのが生と死の問題でした。生きていくためには他の生きもののいのちを奪い(これが気になるので、私たちはいただいているという言葉を使いますが、いのちが消えていることも確かです。これが生きものの宿命としか言えません。すべての動物はこのようにして生きているのですが、それを意識的に捉え、考えるのは人間だけです)、そこで人々は、いわゆる「アニミズム」と呼ぶべき考え方を持ったのであろうと多くの歴史学者が言っています。

 「生命誌」という現代科学を基本に置く知で考えても、そのような考え方が出てくることを前回述べ、それが現代社会にも存在していることのわかる身近な例として、アイヌの日常や宮沢賢治の童話をあげました。非常に明快な例としてこれらをあげたのですが、私たちの日常と比べて少し特殊と受けとめられそうです。

 でも、私たちの日常にも身近な動物たちとの間につながりを感じる気持ちは生きているのではないでしょうか。とくに日本では大きく自然、つまり山、森、石などとのつながりを感じて生きる日常があることを、多くの人が実感していらっしゃるでしょう。現代社会の見直しという本連載のテーマとしてアニミズムの問題は重要であり、やはり宗教との関連で考えざるを得ない面があります。そこで、このことを考えるためにも重要な「物語る」という課題を、まずここで考えたいと思います。 

「話す」から「語る」へ

 私たち(ホモ・サピエンス)の大きな特徴が言葉をもつことであるとは前にも述べましたし、現代社会での毎日の生活も言葉あってのことです。すでに触れたように、家族より大きな仲間を作って共同で狩りなどができたのは、細かな指示を出すことのできる言葉があったからでした。これに加えて、いわゆる「うわさ話」という形で人々のありようを知ってそれを他の人に伝えることもよく行われていたという考え方が出てきています。「うわさ話」となると単に眼の前にあるものや人について話すだけでなく、そこにはいない人のことを話すこともあるでしょう。時にはつくり話もまじっていたに違いありません。

 このような行為は「話す」というより「語る」と言った方があたっています。古代の人々は実際に野外へ出て狩猟採集をしている時間はそれほど長くはなかっただろうと考えられます。現存の狩猟採集民の暮らしぶりから見てもそれは考えられ、食事の用意をし、それを皆で共に食べ合う時間や休けい時間はたっぷりありました。そんな時は皆でおしゃべりをしていたに違いありません。少しまとまった時間に、今日見てきたことや体験してきたことを身振り手振りを交えて話している様子が眼に浮かびます。

 ここで他の生きものにない人間だけがもつ能力に想像力があることを考え合わせると、なかにはまとまったつくり話をする人も出てくるに違いありません。「語る」は「騙る」に通じるところがあると、哲学者の坂部恵先生に教えていただいたことを思い出します。「騙る」とは誰かになりすまして詐欺をはたらくというようなことですから、騙りをはたらいているときには主体も話の内容も共に二重化しています。坂部先生は実は「語る」という行為には、すでにこの二重性があるのだとおっしゃいました。ここで、子どもの頃にお姫様になりきってお話を作り、弟や妹に話すと涙を流して聞いてくれるので、もっと熱心に耳を傾けてもらおうと次々新しい話を考えたことを思い出しました。

 ここでは想像力が活躍します。言葉と想像力が結びつき、物語ができ上がっていくのです。物語としては、現実と離れた思いもよらない話の方が受けます。そんなの嘘だなどとは誰も言わず、思いきり想像力をはばたかせた話を皆が聞きたがるのです。私たちは今、ほとんどの文化に神話・説話と呼ばれる物語があることを知っていますので、認知革命後の古代人は、物語を共有することで仲間を作り、物語を語り合う時間を楽しんだであろうと思われます。

 私たちの祖先が創りあげた物語の世界は、それぞれの文化に、更には文明にまで続きました。それぞれの文化・文明は、それぞれの物語を持ちながらお互いに時に対立し、時に語り合いながら歴史を作ってきたのです。

文化の多様性と文明間の対話

 このように書きながら、ロシアがウクライナに侵攻し、日々激しい戦闘をくり広げている現在の社会は、生きることの基本に存在してきた「物語」を失っているように思えてなりません。それがこのような、とんでもない状況をもたらしているのではないかと思うのです。本当は時代を追って考えていかなければならないところですが、本連載は今の社会を考え直すというテーマを持っていますので、一万年の時を越えて今について少し語ることをお許し下さい。

 物語を失ったために壊れ始めている社会についての提案として、ユネスコで「文明間の対話」をテーマにプロジェクトを動かしていらした服部英二さんの言葉に耳を傾けたいと思います。大きなお仕事ですのですべてを紹介はできませんが、基本を伝えます。現代は文明社会ですが、そこには必ず物語をもつ文化がありますので、そこに注目します。

 服部さんが企画・実行されたプロジェクトは、「世界中に多様な文化があることをまずお互い認め合うことによって、文明間の衝突ではなく文明間の対話ができる」という考え方に基づいて進められました。その結果、2001年にユネスコが「文化的多様性に関する世界宣言」を出します。これは「世界人権宣言」に続くすばらしい宣言と評価され、この内容の実現によって世界は対話をし、平和であることができるとされるものです。この時にフランスの海洋学者で哲学者のJ・E・クストーが、「生態系の強靱性を種の多様性が支えているように、人間社会の強さは文化の多様性が支えている」ことを強調しています。生命誌での考えは、これとまったく同じです。

 ユネスコ憲章には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあります。これらを合わせると、私たちが権力志向のリーダーや金銭の計算のみで動く軍事産業などのまったく非人間的な判断でしか動かない社会でよしとしているのが、ホモ・サピエンスとしていかに恥ずべき状態であるかがわかります。今すぐに始めるべきは対話です。私たちは物語をもち、対話するために言葉を持っているのだということを再確認しなければなりません。情報社会と言われ、さまざまな手段によって世界にばらまかれている言葉には、無意味なものが多いと言わざるを得ません。

 くり返します。言葉は物語をつくり、対話をするためにホモ・サピエンスに与えられたものであり、それ以外には使ってはいけないものなのではないでしょうか。現在の話が長くなりましたが、多様な物語をもつことの大切さは、現代社会にとって大きな課題です。

宇宙の中に私を位置づける

 ところで、物語とは世界観と言ってよいでしょう。神話・説話などで語られるのは自分たちを取り囲む宇宙をどう捉え、その中で自分たちはどのような位置を占めているかを示します。

 私たちは今、宇宙と言うとまず宇宙ステーションを思い浮かべ、世界中の国々が打ち上げた人工衛星のはたらきを考えます。宇宙と言っても宇宙ステーションは地上400㎞ですから、宇宙から見たら地上にへばりついていると言ってもよい位置です。もちろん月面着陸、火星への旅の計画、はやぶさによる小惑星の試料の地球への持ち帰りなど、宇宙の一員としてのホモ・サピエンスとしての物語を展開させるものであり、興味深い事柄です。

 しかし、138億光年という大きさをもつことが分かり、大きさがありながら果てしないという言葉を使いたくなる宇宙を思い浮かべ、その中にいる自分を考えることの意味は、実用性をうたってそこにまで競争を持ち込んでいる宇宙とはまったく別の意味をもっています。最近、このような壮大な宇宙の研究が急速に進み、夢をかき立ててくれるのは嬉しいことです。

 ところで、ハッブル望遠鏡もすばる望遠鏡もなく、自分の眼で空を見ていた古代の人も、果てしない宇宙を感じていたに違いありません。大きなものに包まれている感覚は、今の私たち以上のものだったのではないかと憶測します。夜空には星がダイヤモンドの粒をまいたように輝いていたに違いありませんので、それらを眺めながら語り合ううちに自然界のくり返し(季節なども含めて)に気づき、その中で生きる生きものたちについての知識も増えていったでしょう。

 宇宙の中に存在する私が、今ここで動植物たちと関わり合い、その死に直面していくことの意味を考える場としては、現代の都会よりは古代の暮らしの場の方が良質だっただろうと想像します。そこで、自分たちが生活に取り入れはしたけれど恐ろしい力をもつ火、大事な水、光などの意味を考える物語を作ったことが、多くの地域・文化がもつ説話や神話からわかります。私という存在、そして私がその中にいる私たち共同体は、宇宙の中に位置づけられるのです。

 今、科学という知によって生命誌を読み解き、生きものは地球・宇宙へとつながっていることを明確に知った私たちは、それに基づいた新しい物語を語り合いながら生きることによって、暮らしやすい社会を作っていけるはずだと私は思っています。これがこの連載で考えたい最も大事なことですので、次はそれを語ります。