「連続しながら不連続」な存在
数千万種もあるとされる生きものたちの一つである人類が700万年ほど前に生まれ、その後さまざまな人類へと進化しましたが、その中で私たちの祖先であるホモ・サピエンスだけが生き延び、今に続いています。つまり今の地球にはヒトは一種しかいません。
もっとも近年、化石からのDNAの抽出と解析が可能になり、絶滅したとされるネアンデルタール人のDNAが中東とヨーロッパの現代人のDNAの中に1〜4%ほど入っていること、メラネシア人とオーストラリア先住民のDNAには、デニソワ人のDNAが最大6%入っていることがわかってきました。生きものはさまざまな形での「つながり」を特徴とするのであり、現代人の中で絶滅した種が一部生きていながら、種としてはホモ・サピエンス一種だけという実態の中に過去とのつながりを感じることが大事でしょう。
ホモ・サピエンスはもちろん生きものの一種であり、ゲノム解析などから、他の生きものたちと共通な部分が多く知られています。中でも霊長類とは非常に近く、彼らを研究することで人類の特徴が見えてきます。生活面でも、ゴリラの家族やチンパンジーの集団のありようを見ると、私たちはどうもこの両方を持つ形になっているようだとわかってくることはすでに述べました。このように私たちが生きものとして他の生きものたちとつながっている部分は、ホモ・サピエンスが誕生した20万年前も今も変わりはありません。
もちろんその間にDNAの変異はあり、それが現在の暮らしに生かされてはいます。アフリカから他の大陸に移動し、温度、湿度、降雨、日照などの異なる地域に暮らすようになり、肌の色や体型がその地に適合して変化していった背景には、DNAの変異があるはずです。ただ一方で、ゲノムとしての基本は変わっていないことを忘れてはなりません。つまり、ホモ・サピエンスという私たちの生き方を考えるには、他の生きものとの連続性を踏まえながら、なお不連続な存在として生きている事実を見ていく必要があります。
本連載では、この「連続しながら不連続」という視点を大切にします。恐らくこれが、今私たちの生き方を考える上で最も大事な切り口だと思うからです。現代社会は割り切り型になっており、他の生きものとの不連続を見る人は、人間だけが特殊と考え、自然から離れた技術の世界に進むことをよしとします。科学技術社会を考えるにあたって、人工の世界ですべてをつくり、その中で暮らすことを幸せと考えているように見えます。一方、自然派は、人間も自然の中にあることに注目するあまり、科学技術に強い不信感を抱くことになります。私たちは生きものとして「連続しながら不連続」という曖昧な位置づけにあることを認識したうえでの生き方を探るしかなく、それが前向きな選択だと思います。
私たちの生き方を問い直すには
まず、他の生きものたちはもちろん、他の人類とも異なる私たちの特徴は、7万年ほど前から始まった認知能力の革新です。「認知革命」と呼ばれるこの革新については、これまでに説明してきた通りです。私たちの言葉は、文を作って思考し、仲間の中での意思疎通をはかることによって、文化や文明を生み出してきました。このような人類の生き方を見ていきますが、ただここで行いたいのは、ホモ・サピエンスの歴史を追うことではありません。認知革命以降、農業革命、科学革命という革命を経て、文化・文明を育ててきた大きな流れの結果生まれた私たちの現在の生き方を問い直したいのです。
17世紀の科学革命の後に18世紀の産業革命を経て19世紀に科学技術社会に入り、それが現在に続いています。科学技術社会は進歩・成長・拡大へ向けて利便性を高めることでよりよい方向に進んでいるとされてきました。しかし、近年の地球環境問題に代表される自然との関わりの中で起きている多くの問題、情報化の急速な進展がもたらす人間性に関わる問題などを考えると、このまま進んでよいのだろうかという問いが生まれます。時に、これはホモ・サピエンスとしては滅びの道かもしれないというイヤな思いが頭の中をよぎることさえあります。異常気象のような形で問題が顕在化してきましたので、近年、現代科学技術社会の見直しという動きが起きてはいます。
具体例として最も分かりやすいのはSDGsでしょうか。2015年に国連で開かれたサミットで、すべての国の共通の目標として定められた「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)です。世界を変えようというスローガンの下、エネルギーや気候変動のような近年急速に深刻化している課題だけでなく、貧困や飢餓、健康や福祉、働き甲斐など日常生活に関わる事柄のすべてに目を向けています。国はもちろん企業も関心を示し、世界的に大きな動きになっていることは評価できます。
ただ、これらの問題のそれぞれに対処するだけでなく、このような問題山積の社会になっているのはなぜだろうと問う必要があると思うのですが、それがなされているようには思えません。この問いへの答え探しはとても難しいことです。科学や科学技術を悪者にして否定しても、よい答えが出てくるとは思えません。そこで、ここでは「人間は生きもの」という紛れもない事実を基本に置き、人間という生きものはどのような特徴をもつかを見たうえで、それを生かした見直しをして行こうと思います。そのためには「認知革命」のところに戻り、そこから考え直すのがよいのではないかと考えました。とてもとても難しそうですが、生命誌という私の専門を道具にして考えていきます。
絶望と希望を生み出す能力
私たち人間(ホモ・サピエンス、以後人間と言います)は、独特の言葉をもつことによって150人(ダンパー数:連載7回を参照)という他の生きものにはない集団をつくることができ、その中での協力関係が独自の社会を作ってきたことは見てきました。
ところで、恐らく言語と深く関わりながら生まれた能力だと思うのですが、人間だけが持つとされるのが「想像力」です。長い間のチンパンジー研究から、彼らが人間を超える直観像記憶を持つことを示したのが松沢哲郎さんです。コンピュータ画面にランダムに数字を出してすぐに消し、書かれていた数字の場所を小さい順に示していく作業をすると、チンパンジーが人間以上の能力を示します。実は私も一度これをやったことがあるのですが、完敗でした。つまり記憶能力は人間特有の優れた能力とは言えないことがわかります。
このような研究を重ねた結果、松沢さんがこれぞ人間の特徴として導き出したのが「想像力」です。それを示す実験は興味深いものです。チンパンジーの顔の輪郭を描いたものを見せると、チンパンジーと二歳までの人間の子どもはその輪郭をなぞるだけなのに、三歳を過ぎた人間の子どもは、そこには描いてない目を描き入れるというのです。ここから人間は、そこにないものを思い描くことができるということが分かります。
ここで松沢さんは、急性脊髄炎で動けなくなったチンパンジーを助けようと看護した時のことを思い出します。動けないためにひどい床ずれになっているのに少しもめげず、人に向かって口に含んだ水を吹きかけるなど、元気な時に好きだったいたずらまでしていることがふしぎでした。自分だったら生きる希望を失うに違いない状態なのに、なぜこんなことができるのだろう。そこで思いついたのが、人間は将来を想像するから絶望するのであって、今ここだけを生きているチンパンジーにはそれがないのだということでした。絶望するのは未来を想像する能力あってのことであり、これは人間に希望を持たせる能力でもある。これが松沢さんの結論です。
「虚構」の力
想像力は人間にしかない。そしてそれが新しい未来を創り出す創造力につながるのだと考えると、想像力をいかに使うかということの大切さが浮かび上がってきます。ここに鍵があると言ってよいでしょう。ここで思い出すのが、Y・N・ハラリ著『サピエンス全史』です。そこには、私たち人間が現代に到る文明を築いた原動力はまさにこの想像力にあるとあります。ホモ・サピエンスが生き残ったのは柔軟な言語を手に入れたからであり、その結果「川の近くにライオンがいる」という情報によって仲間が協力できるようになったと同時に、人間についての情報、つまり「噂話」もするようになりました。ハラリはこれがとても大切だと言います。これについてはすでに述べましたのでおさらいです。
重要なのはこれからです。ハラリは言語がもつ真に比類ない特徴は、「まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ」と気づくのです。噂話は、事実を伝えるだけではありません。かなりいい加減な話が広まった例をいくらも思い出すことができます。人間らしさを生み出すのに大事なのは「虚構」であり、具体的には伝説、神話、神々、宗教などがそれにあたります。
これらが生まれると一人一人が想像するだけでなく「集団で想像できるようになる」のであり、これこそが人間の生き方を支えているとハラリは言います。共通の神話の下では、家族や身近な仲間とだけでなく赤の他人とであっても協力できるようになり、これが私たち人類の力になったというわけです。すでに触れたように、噂話のレベルでまとまる自然の集団は150人ほどであり、これ以上大きな集団の形成は難しいことがわかっています。虚構によってそれを越える集団をつくったという指摘を受け止めて、そこからどのような生き方ができるのか、どのような社会がつくれるのかを考えていきたいと思います。
ところで、ここに大きな問題が生じます。私たち人間に特有の虚構には多様性があり、そこから生じる行動パターンにも多様性があります。これが文化であり、これが変化し発展してきました。この変化を「歴史」と呼ぶとハラリは言い、「したがって、認知革命は歴史が生物学から独立を宣言した時点だ」と言い切るのです。「歴史的な物語(ナラティブ)が生物学の理論にとって代わる」とも言います。一方で、これは「文化が生物学の法則を免れるようになったということではない。私たちは相変わらず動物であり、私たちの身体的、情緒的、認知的能力は、依然としてDNAに定められている。私たちの社会は、ネアンデルタール人やチンパンジーの社会と同じ基本構成要素で構築されており、感覚、情緒、家族の絆といったこれらの要素を詳しく調べれば調べるほど、私たちと他の霊長類の違いは縮まっていく」とも言っています。
生きものたちの歴史物語から
ハラリの主張をまとめると、「歴史は生物学的特性の領域の境界線で発生するが、この領域はとても広いので、驚くほど多様なゲームができる。私たちは、虚構を発明したおかげで複雑なゲームを編み出し、世代と共に発展させてきた。私たちのふるまい方を考えるには歴史に学ぶべきで、生物学的制約だけに言及していてはいけない」となります。今考えなければならないことがみごとにまとめられています。基本はその通りです。
ただここで私は、「歴史的な物語が生物学の理論にとって代わる」というところを考え直したいのです。21世紀の今、私たちは「生きものである私たちを生物学の理論ではなく、生きものたちが辿ってきた38億年の歴史物語(ヒストリー)の中に置いて考えること」ができるようになったという事実があります。
そこで、大きな仮定ではありますが、もし狩猟採集から農耕へと続く変化の時に、そこで暮らす人間が21世紀を生きている私たちと同じように自身を38億年の歴史の中に置いて考えることができたら、農業の歴史はどのようになっていただろうという問いが生まれます。別の言い方をするなら、現状からどのように変化できるかというところにこだわらず、これから先何千年、何万年という時間、地球上の誰もが食生活を楽しめる農耕を今始めるとしたら、どうできるだろうと考えてみたいのです。今私たちが手にしている38億年の生命の歴史物語を生かしたらどうなるか。生命誌としてはそれを求めます。次回から、新しい道を探ります。