――最後にもう一度、普遍についてお聞きしていきたいと思います。ここ最近のヘイトスピーチの問題や、男女格差の問題(編注:世界経済フォーラムによる「ジェンダーギャップ指数2021」で日本は120位)を見ていて思うのですが、日本で人権意識が高まっていかないのは、日本人が普遍(普遍化された人権)をイメージできないからじゃないかという気がするんです。そのことが政治への無関心や投票率の低さといったことにもつながっているように思うのですが、いかがでしょうか。

 日本が歴史上、普遍に対して感受性が低かったというふうには、私はあまり思ってないんですよ。たとえば中国から入ってきた仏教が列島全域に広まって、現代に至るまで信仰されていますよね。それはある種の普遍化が起きたということだと思うんです。そのときには、外来の仏と日本の神をつなげる「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」のような面白い議論も展開されていますよね。これなんかは普遍と特殊をどうつなげるかという、一つの興味深い試みだったと思います。

――そう言われるとたしかに、日本が普遍と無縁だったわけではないですね。

 それから、戦前の日本は帝国だったので、「大東亜共栄圏」といった自分たちのミッションが普遍的なものであるということを、世界に宣言する必要がありました。つまり、普遍の問題に取り組まざるを得なかったわけです。ただ、そこで叫ばれた「普遍」は日本の都合でつくられたものに過ぎなかったために、他国の賛同を得られなかったわけですが、戦後の日本はそれを反省するということで、普遍化する努力までもいっときやめてしまって、ある種の特殊性に閉じこもったように見えます。日本はユニークな一つの文化でいいじゃないかと。

 植民地を失ったことで、自分たちをまるで単一民族であるかのように表象できたわけです。実際はまったくそんなことはないのですが、そう思えてしまったし、思い込もうとした。こうしたことが重なり、普遍化の努力をやめてしまったことが、今日の状況の背景にあるのではないでしょうか。

――なるほど。そのお話ともつながるように思うのですが、今の日本社会って機会主義というか、日和見主義が多数を占めているように思うんです。あるべき状態、それこそ普遍的な何かを目指して努力するのではなく、今の状況や、既に起きたことに対して自分たちに都合のいいような説明を付与することばかりに時間と労力を使っているように見えます。

 普遍化の努力というのは概念に関わってくるものだと思います。概念を一つひとつ吟味して、どのように押し広げていくか、あるいは洗練させていくかというのを絶えず考えないといけないのですが、その努力は案外大変なものです。でも、それをやらずに適当に済ませておくと、今おっしゃったような現状肯定、現状追認というものに陥ってしまいます。本当は哲学がもっと概念の洗練を提示しなければいけなかったんですけど、実社会とうまくつながってこなかったのかなという気がします。

――そうした概念の一つとして、先生は「人の資本主義」ということをおっしゃっていますね。

 これはたまたまなんですが、ある時から資本主義というものについて考えざるを得なくなってきました。それで資本主義とは何かということから始めて、それこそ概念を一つ一つ定義し直してみたところ、図式的に「モノの資本主義」「コトの資本主義」そして「人の資本主義」というふうに分けることができるんじゃないかと考えたんです。

 「モノの資本主義」というのはモノを作って、流通させて、消費するという、資本主義の第一段階です。そこでの人のアイデンティティはモノを作る人、つまり労働者です。その結果、世の中にモノがあふれるようになると、資本主義は差異へと向かっていきます。人とは違ったものが欲しい。人とは違った経験をしたい。そこでは人も企業も「差別化」が重要となり、「人とは違う経験」がパッケージ化されて市場に投入されていきます。それが「コトの資本主義」です。

――今がその段階ですね。

 では、この先、資本主義はどこへ向かうんだろうと考えました。市場がグローバルになり、格差の拡大や環境破壊を促進させている資本主義がこのままではいられるはずがないと、多くの人が思っています。特に若い世代に言わせると、資本主義には自浄能力なんかないんだから、もうやめてしまえとまで考える人々も出てきています。それで、社会主義や共産主義というものがあらためて注目されていると思うんですね。ただ、20世紀の経験を踏まえると、社会主義や共産主義の影の側面も忘れるわけにはいかない。なので、いきなりそっちに行くよりも、少なくとも資本主義をもう一度鍛え直してみたらどうだろうか。あるいは、やめるにしてもやめ方というものがあるだろうと思うんですね。

 そこで私は「人の資本主義」というふうに言ってみて、人が生きることに資するような、人の生に投資をしていけるような資本主義に転換するのがいいのではないかと思うようになりました。たとえば今「脱成長」や「サーキュラー・エコノミー」といった議論があります。各国がGDP的な成長を目指していてはもう地球が持たないので、そうではない仕方で人間が繁栄するにはどうしたらいいか。それが脱成長とかサーキュラー・エコノミーといった議論のポイントだと思うんですけど、その投資の対象は人間だと私は思うのです。

 ロボット化・オートメーション化がこのまま進行すると、人間の働く場所はどんどんなくなっていって、多くの人がユヴァル・ノア・ハラリ(1976-)のいう「無用者階級」になってしまいかねません。それでも食べてはいけるし、生物学的に、生きてはいけるかもしれない。でも、やることは何もない。本当にそれでいいのか。それでは人間が全然輝いてないと私は思うんです。別の言い方をすれば、人が花開いてない状態。私は、たとえ非効率であっても、費用対効果が低くなったとしても、一人ひとりが花開いている社会の方がいいと思うんです。だから、そこに投資をする。

 資本主義というのは投資をして回収する仕組みですから、その仕組みを最大限利用すればいい。それであえて「人の資本主義」と言っているのですが、ここでの人というのはリソースではないんです。何かを生み出すための資源ではなく、その人自身が変容し、花開いていくようなあり方としての人ですね。人間をそういうふうに考えたいんです。

――それでhuman co-becomingなんですね。私たちはつい「何のために生きるのか」という風に考えてしまいますけど、それって実は人間を、道具とか機械のように捉えてちゃっているんですよね。

 私たちは生を生きているんですよ。ですから、それを深めていくことがとても大事だと思います。人間の生というのは、自分一人で構成されているわけではありません。もっと言ってしまえば、私の心とか魂というものも私の所有物なんかではありません。他の人たちと共に構成されている何かだというふうに思うんです。言語だってそうじゃないですか。多くの人と共有しているもの、それが言語ですよね。私の言語なんてどこにもない。心や魂といったものも、それと似たあり方をしているんじゃないかと思うんです。

――言語がなければ、心や魂といったものを考えることさえできないですもんね。

 シェアしているという気がすごくするんですよ。だから、それを豊かにしていくことで、私たち一人ひとりの生が、生きるということが深まっていく。そういう方向に向かっていったほうがいいと思うんです。

 私はなにも「人の資本主義」が最終形態だと言っているわけではありません。そこから見直しませんかという提案をしているんです。そうすれば、今あるモノやコトだって、新たな相貌をもって現れてれてくると思うんですよ。そこから、人にとって本当に必要なものは何か、本当に大事なことは何かというふうに考えてみるのがいいのではないでしょうか。

(取材日:2021年12月9日)