――俗にいう「身心二元論」って、体があって、それとは異なる私がいるってことですよね。それが心なのか意識なのかは別としても、さっきお話したみたいに、言語を獲得していなければ「私」さえ認識できないのであれば、もういっそ私とは言語であると言っちゃってもいいのかなって。

 うーん、難しいですね。社会的な意味での私もあれば、身体的な意味での私もあるので。言葉が私だって思う部分もありますけど、吃音的にはその場合の言葉って、単なる概念ではなく、自分の身体との関係で語られるものなんですよ。言いやすい言葉もあれば言いにくい言葉もあるので、身体運動としての側面がどうしても関わってくる。

 にもかかわらず、社会的にはそれが共有されない。内面のドラマとしては間違いなくあるんだけれども、コミュニケーションのテーブルに乗っけることができないというのが、吃音の特殊で、もしかしたら苦しい部分かもしれないです。身体的な自己をそのまま出せなくて、言語的な部分しか共有されないっていう。

――ちょっと思ったんですけど、吃音のある方は、たとえば「私とは何か」って考えてそれについて書くのと、こうやって誰かと話すのとでは、言いにくい言葉がある場合には別の表現になるわけですよね。

 そうですね。書いてるときは純粋な言語なので体は無視できるんです。書くのと話すのとでは、そこが一番の違いかもしれないですね。

――書くのは書けるんだけど、話そうとすると別の言葉になっちゃうとしたら、確かに自分を偽っている感じがするかもしれないですね。

 でも、言語がすべてじゃないと思うんです。私、すごく好きなサークルがあって。「バンバンクラブ」っていう、視覚障害者のランニングサークルなんですけど。視覚障害者がランニングをするときって、輪っかにしたロープの両端を見える伴走者と見えない人が持ってシンクロしながら走るんです。で、そのロープがすごいんですよ。ただのロープなんですけど、やってみると3秒くらいで相手のことが好きになっちゃうんじゃないかというくらい、相手のことを生々しく感じるんです。

 触覚的な情報ってすごいなって思うんですけど、何もしゃべらなくても、そのロープを通じていろんなことをやり取りできるんですよ。少し先に坂があったりすると、伴走者は見えるので「坂だ」って思うわけですよね。それで、ちょっと頑張ろうといった気合が、もう、すっと見えない人に伝わっちゃう。緊張とか、ちょっとした呼吸の変化とか、そういったことが全部、神経線維みたいに伝わりあうんです。そういうのもコミュニケーションなので、言葉によるコミュニケーションをもうちょっと相対化してもいいのかなっていう気はしますね。

――なるほど、面白いですね。

 言語によるコミュニケーションは発信者側と受信者側を明確に分けるんですけど、最近「伝える」ってそうじゃないんじゃないかって思っているんです。片方が持っている情報をもう一方に伝達するっていうよりは、一緒につくっていくみたいな。そういう関係のほうがラクな場面が多いので。

――ロープでつながって走っている二人は正に一心同体というか、いうなれば一つの自己になっているような感じかもしれないですね。

 そうだと思います。だからもう相手を信頼するしかないって感じで、それが、すごく気持ちいいんだと思うんですよね。自分を完全に相手に預けてしまうっていう。それこそ「降りる」っていう感じですよね。

――自分が自分じゃなくなる。いや、そこでまた「自分」って言っちゃうとややこしくなるのかな。

 自分に対するこだわりって、どこから来るんですかね。

――それもすごく不思議ですよね。以前のインタビューでもご紹介したんですけど、禅僧の南直哉さんが本の中で、坐禅をしてると自我が溶解して、床が痛いとか襖がかゆいみたいな感覚になると書かれていました。体は物質なので境界線がはっきりしていて、ここまでが自分だって普通は思っちゃうんですけど、それとは異なる自己のあり方もあるのかなって。

 体って、自分の輪郭を決めてるようでいて、実は自分を拡張するための一番のツールにもなるんだと思うんですよね、物理的だからこそ。

――物理的だからこそ?

 私が障害の研究をしていて一番おもしろいのがそこなんです。障害があるっていうのは自分の体だけでは完結できないということなので、必然的に周りの人の力をうまく使うことになります。さっきのロープを使った伴走もそうですけど、そうやって、いろんなものを上手に呼び込んで、自分をネットワーク化していく。障害を持っているというのは、そうやって生きていくってことなんです。その柔軟さみたいなものがすごくおもしろいなって。

――それは新鮮な視点ですね!

 さっきの伴走も、究極的には伴走者が消えるって言うんです。あまりに上手に伴走してくれると、伴走者が消えて道が見えるって。自分は見てないんだけれど、この人の視界が自分の中に入ってくる、みたいなことをおっしゃる方もいます。能力って、人のものをうまく使ったり、逆に自分の能力を貸したりとかが結構できるんですよね。その貸し借りみたいなものが、障害を通すことでよく見えてくるんです。

――今の世の中って他人に迷惑をかけるなとか、自分のことは自分でやれ、みたいなのがすごく強いじゃないですか。でもきっと、本当はそういうものじゃないですよね。

 そう思い込んでるのは健常者だけかもしれないですよ。誰だって実際には、いろんなものを使って生きてるわけですからね。

(取材日:2019年1月16日)