加藤 最後に、AIは人間の話し相手になれるのかというテーマについて考えてみたいと思います。これはAIの側がどこまで進歩するかということではなく――その面でいえば既に実現しているようにも思いますので――、われわれ人間の側がどう感じるかということです。

 このテーマを取り上げたのにはきっかけがあって、昨年(2022年)AIを用いて書かれた作品が星新一賞に入選したというニュースがありました。それを見たときにふと、これを書いたのがAIだと知っていたとしても、自分はその小説を純粋に楽しめるだろうかと疑問に思ったんです。「チューリングテスト」のように著者が人間かAIかわからないということであれば「どっちが書いたんだろう」みたいな楽しみ方もできると思うんですけど、もう最初からAIが、たとえば村上春樹風に生成した作品ですと言われたら、個人的にはあまり読みたいとは思わないだろうなと。

 でも、そのときにもう一つ思ったのが、ソニーの「aibo」ってあるじゃないですか。われわれはあれがロボットであることを知っているわけですよね。われわれと同じ生きものではなく、電子部品によって構成された機械であることを知っている。にもかかわらずわれわれはaiboを、生きもののペットや、もしかすると自分の子どもと同じように愛することができる。その違いがちょっと不思議で面白いなと思ったんです。

中村 なるほど。小説の作者と話し相手というのはまたちょっと違うかもしれませんが、会うたびに嫌なことばっかり言ってくる人間と、すごく楽しく会話できるロボットだったら、明らかに後者の方がいいじゃないですか。なので、相手が人間かロボットかということより、話しているときに自分がどういう感じになるのかということの方が重要だと思いますね。

加藤 おっしゃる通りかもしれません。ここで、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』からもう一か所引用したいと思います。

あいつはおれが存在していることも知らない。アンドロイドとおなじように、あいつにはほかの生き物を思いやる能力がない。リックはこれまで一度もこんなふうに電気動物とアンドロイドの類似を考えたことがなかった。電気動物はアンドロイドの亜形態、つまりきわめて下位のロボットの一種ともいえそうだ。逆にアンドロイドは、高度に発達した模造動物の一種とみなせる。どちらの観点もおぞましいものだった。

(フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』56頁)

加藤 「あいつ」というのは主人公のリックが飼っている電気羊のことで、それこそaiboみたいなものを想像していただければと思うんですけど、リックはこの時点では、電気羊やアンドロイドは人間とは根本的に異なるものだと思っているんですね。しかしこの後アンドロイドに対するリックの思いは徐々に変わっていくことになり、それがこの小説の見所の一つだと思うんですけど。

中村 この作品の世界では、地球上の多くの生きものが死に絶えてしまって、ペットを飼おうにも、普通の人はロボットくらいしか飼えないわけですよね。その世界に、外見は人間と見分けがつかないアンドロイドも存在するのですが、果たしてそのアンドロイドは、人間がそう思うのと同じように、電気羊を飼いたいと思うだろうかというのが、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』というタイトルの意味なんです。つまり、人間、アンドロイド、電気羊という三者の関係性を踏まえてつけられているわけです。

加藤 そういうことだったんですね! 初めて知りました。

中村 フィリップ・K・ディックは本当にすごい作家だと思います。私は大好きです。 

加藤 いまのお話も踏まえてですが、人間とAIの関係性というものを考えたときに、私は大きく二つの方向性があるんじゃないかと思います。

 一つは人間とAIが同質化していくというか、われわれが自分自身をAIと同じ情報処理システム(アルゴリズム)だとみなし、ネット上やデータベースにある情報だけに依拠して自らの行為を決定していくようになるという方向。いまの趨勢はまさにこれで、人間の仕事がAIにとられるとかっていう話も、「人間はAIと同じアルゴリズムだ」という認識が根底にあると思うんです。この場合、AI=人間なので当然「話し相手」にはなると思うんですけど、そこでは、より劣ったアルゴリズムである人間は――フィリップ・K・ディックの小説とは逆に――AIの奴隷にならざるを得ない。それはまさに、ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で予測したディストピアです。

 これとは異なるもう一つの方向性が、AIとの違いを認識しながら「共生」していくというもので、そのカギになるのは「アニミズム」だと思うんです。奥野克巳先生に教えていただいたんですけど、アニミズムというのは――デスコラという人類学者の定義によると――人間(主体)が対象との間に「身体的(物質的)な非連続性」と「内面的(精神的)な連続性」を認める思考だということでした。これを踏まえると、われわれがaiboや「電気羊」を飼いたいと思うのは、まさにアニミズムなんじゃないかと。ただし、この場合の「内面的な連続性」というのは「人間もAIもアルゴリズムだ」みたいな単純なものではなく、きっとそれぞれのワンルームマンションの中の「語りえないもの」を指すと思うんですけど、その延長線上にAIとの関係を考えれば、ハラリが危惧するのとは異なる未来像がひらけてくるんじゃないかと。

中村 とても面白い視点ですね。アニミズムという切り口は想定してなかったので後で考えてみようと思いますが、私の大好きな将棋を例にとると、AIは2013年にプロ棋士に、2017年には当時の名人だった佐藤天彦に勝利しました。なので、今ではもう完全に人間より強いわけです。藤井聡太がどんなに強いと言っても、AIと指したらおそらく一割も勝てないでしょう。人類最強の棋士をAIが超えているので、将棋の真理を追究するということにおいては、プロ棋士は既にお役御免です。

 にもかかわらず、将棋がこれだけ人気があるのはなぜかというと、人間同士の対局にわれわれが感動するというのもあるんですけど、プロ棋士の上にAIがいまや人類の先導者として存在しているからだと思うんですね。テレビやネットで中継されるプロ棋士同士の対局では、一手指すごとに、その手がどれくらい優れているか、この対局がいまどういう局面にあるかといったことをAIが分析してくれます。それによってプロ棋士や高段者だけでなく、私のようなへっぽこ愛好家から、将棋を指したことのない人までもが楽しめるようになったんです。もちろんAIも発展途上なので将棋のすべてを知り尽くしているわけではないのですが、将棋界ではAI、プロ棋士、愛好家という構造が形成されていて、それがとてもうまく回っているんです。

加藤 将棋の世界では人間とAIの「共生」が成り立っているんですね。 

中村 そうなんですよ。それがそのまま他の分野にも適用できるとはもちろん思いませんが、どちらかがもう一方を「奴隷」や「道具」にしてしまうのではない共存の仕方というのはきっとあると思うんです。

 AIがいくらすごいといっても人間がスイッチを入れないと動かないわけですし、さっきも言いましたが、AIはプログラムにないメタレベルの判断というものはできません。AI同士の将棋の対局中に、地震が起きて建物がいまにも崩れそうなときでも、将棋のAIは、将棋を指し続けること以外はできません。不測の事態が起きても、どうすればいいかわからないのです。

 そう考えると、さっき言われたアニミズムじゃないですけど、両者の違いや得手不得手を認めながら互いに補い合えるような関係性を築いていくことが大事になってくるのではないでしょうか。

※本稿は大阪アドバタイジングエージェンシーズ協会 第26回夏季広告セミナー「言語ゲームとAI~コミュニケーションの未来を哲学する」の音声データを基に構成しました。