相対化される世界

加藤 20世紀の初めにフレーゲやラッセル、ホワイトヘッド、そしてウィトゲンシュタインらによって「言語論的転回」が起きたというお話がありましたが、そこに至るにはどんな経緯があったんですか。

中村 さっきもお話した通り、「言語論的転回と」いうのは、数学を基礎づける学問として論理学を位置づけようとする試みなんですね。なぜ「転回」という言い方がされているかというと、この動きが、18世紀にカントが起こした「認識論的転回」を踏まえているからです。

 話をややこしくして申し訳ないのですが、われわれはふつう「私」と「世界」は別々に存在し、私の主観とは無関係に「客観的な世界」が存在していると考えていますよね。しかしカントは、われわれの認識の構造、つまり物を見る見方がこの世界をつくり上げているのであり、それとは異なる客観的な世界、いわば「世界そのもの」が存在しているかどうかはわからないと主張しました。だから、世界そのものがどうなっているかということより、われわれの認識の構造について考えようと。

 この議論はよく「眼鏡」の比喩で説明されるのですが、つまり、われわれはこの世界のありのままの姿を見ていると思っているけど、実際には人間に特有の「色眼鏡」で見ているのであり、世界そのものがどんな色をしているのかは絶対にわからないんだというわけです。

 こうしたカントの主張によって、世界の捉え方や哲学の枠組みがガラッと変わりました。カント自身はこれを天動説から地動説への転回を意識して「コペルニクス的転回」と呼びましたが、一般的には「認識論的転回」という呼び方が定着しています。これを踏まえて、人間の認識構造である「色眼鏡」の一部、あるいはそのもっとベースの部分には言語や論理が関わっているんだという議論が「言語論的転回」なんです。

加藤 いま見えているこの景色は、世界がこういう色や形をしているわけではなく、われわれ人間にはそう見えるだけだというのが「認識論的転回」ということですね。イヌやネコの色覚は人間とは異なるので世界が違って見えているという話を聞きますけど、それでいうと、人間の色覚が世界の本当の色を捉えている理由なんてどこにもないですもんね。

 中村 そうなんですよ。カラーテレビが世に出たばかりの頃によく「天然色」という言葉を見聞きしましたが、実は人間が「天然の色」だと思っているだけで、実際には「人間色」なんです。

加藤 たしかにそうですね。「言語論的転回」は、そういった人間独自の世界認識の根底に言語が深く関わっているんだと。

中村 「認識論的転回」を否定しているのではもちろんなく、認識における言語の重要性を浮き彫りにしたということです。それまで言語は思考や表現、あるいは意思疎通のための「道具」だと考えられていました。でも実は、言語は、こちらが自由に使えるようなものではなく、世界のあり方=われわれの認識構造に深く食い込んでいる根源的なものであることが「言語論的転回」によって示されたんです。

加藤 前回のお話を踏まえると、この世界、つまりわれわれ人間にとっての世界は言語=論理によって構成されている。だからこそ、言語や論理の構造を解明すれば、この世界のこともわかるんだというわけですね。

中村 そういうことです。ここまでお話してきたのは論理学による革命なんですけど、それとほぼ同時期に言語学の世界でも、ソシュールという言語学者による「ソシュール革命」が起こりました。こっちの方が実は「言語論的転回」という言い方がしっくりくるんですけど、これは要するに、われわれは言語に従って世界を分節しているという議論です。普遍的で客観的な唯一の世界があり、それを日本語、英語、フランス語といったそれぞれの言語で表現しているというのではなく、その逆に、それぞれの言語の「網の目」を世界に押し付けているというわけです。なので、その人の母語が何語かによって、体験する世界はまったく違ってくるわけです。

加藤 そういえば、日本では虹は7色ですけどアメリカでは6色、中国では5色だと聞いたことがあります。これは虹そのものが違うのではなく、それぞれの言語圏で「虹は○色」と聞いて育つから、そう見えるということですね。

中村 そういうことです。オオカミに育てられた少女のような不幸な例を除けば、われわれは生まれてからすぐに母語のシャワーを浴びて言語を習得すると同時に、その言語に特有の世界の見方を血肉化していくわけです。こうした考えを「言語相対主義」といいますが、ただ、言語がものの見方や感じ方をどれくらい規定しているかというのは非常に難しく、ぜんぶがそうだというわけでもなさそうです――これについては今井むつみさんが『ことばと思考』(岩波新書)という本でわかりやすく説明されています――。

 ソシュールの世界的な研究者だった丸山圭三郎先生――丸山先生は私の卒論の指導教授だったのですが――は、「肩こり」という言葉は英語にはないのでアメリカ人は肩がこらないんだとおっしゃっていました。その時はなるほどと思ったのですが、大学院に進んでから今度は木田元先生が「丸山君はああ言ってるけど、ポール・ニューマンは映画の中で肩こってたぞ」と (笑)。「肩こり」というタームが英語にないのは事実ですが、アメリカ人でも肩はこるし、おそらくその症状を指す別の言葉があるのでしょう。

 なので、言語相対主義がすべてに当てはまるわけではないけど、世界やわれわれが基本的にそういうあり方をしているということは言えると思います。

論理から現場へ

加藤 それではいよいよ今日のテーマである「言語ゲーム」についてお聞きしていきたいと思います。最初にウィトゲンシュタインは前期と後期で考え方が変わったというお話がありましたが、まずはその違いについて、改めて教えていただけますか。

中村 前期のウィトゲンシュタインはこの世界の基底には論理があるということを前提に、言語はわれわれがその論理を利用するためのものだと見ていました。なので、言語を洗練していけば、完全に秩序だった「普遍言語」のようなものが出来上がるはずだと考えていたのですが、後期は一転して、言語が地域や文脈によってさまざまな使われ方をしていることに目を向けます。そこで、言語が必ずしも論理をベースにしているわけではないことに気づいた彼は、言語の本当の姿を知るためには、論理よりもむしろ、われわれの日常に現れるさまざまな言語のあり方をチェックしなければいけないと考えました。そして、このような言語のあり方のことを「言語ゲーム」と名付けたわけです。

加藤 ウィトゲンシュタインの前期の言語観というのは、たとえるなら辞書みたいな感じですね。辞書にはそれぞれの単語の意味や用法がきちんと、それこそ論理的に説明されているわけですから。それに対して後期の「言語ゲーム」は給湯室でのうわさ話とか、知り合いに会って「おっす」って言ったら「おう」と答える、そういったものも含めて言語なんだと。

中村 おっしゃる通りです。前期のウィトゲンシュタインは辞書での記述、たとえば「哲学」なら「哲学」が辞書の中でどう説明されているかというのが、この言葉の本当の姿だという考え方です。これに対して後期は、辞書の説明がどうなっているかということより、「哲学」という言葉がわれわれの日常でどう使われているかを重視するわけです。

 実際われわれは「哲学」という言葉を、さまざまなコンテキストで使いますよね。「それが彼の哲学だからね」とか「お前の言い方、哲学チックで恥ずかしいな」とか。

加藤 「何わけわかんないこと言ってんだ、哲学かよ!」みたいな使い方もしますね。

中村 そうそう。そういう用法は辞書には載ってないわけですよ。でも、そういったいろんな場面やコンテキストで出てくる「哲学」こそが、この言葉の本当の姿なんだというのが「言語ゲーム」という考え方なんです。

加藤 会話の現場における言語の姿を見ようとしたと。

中村 まさに現場です。後期のウィトゲンシュタインは現場主義なんです。ただ、注意しないといけないのは、日本語で「ゲーム」というと将棋とか囲碁みたいなものをイメージすると思いますが、元の言葉であるドイツ語の「シュピール」には、ゲームの他に芝居や演劇という意味も含まれているんです。なので、「やりとり」とか、ある種の行為みたいな感じですね。われわれが使う「ゲーム」より膨らみのある言葉なんですよ。

加藤 ニュアンスとしては「コミュニケーション」に近いですか?

中村 いえ、コミュニケーションは「意思疎通」なので、それは違いますね。さっきのワンルームマンションの話に戻ると、私というワンルームマンションに他人は絶対に入ってこれないので、意思が伝わるということは構造的にありえません。なので、そのような意思の存在を前提としないのが「言語ゲーム」なんです。

加藤 なるほど。「言語ゲーム」はあくまでも言葉の次元のやりとりだということですね。われわれは目に見える、耳に届く、手で触れられるものしかやり取りできないんだと。

 中村 そういうことです。