「人間は生まれつき利己的か、それとも利他的か」といった、人間の本質を探求する議論のことを人間本性(ほんせい)論といいます。人間本性論は、「人間は生まれつき利己的である」という考えに基づいて『リヴァイアサン』を著したトマス・ホッブス(1588-1679)にはじまる近代イギリスのモラリストたちにより、およそ300年にわたって議論されてきました。その中でも主要なテーマの一つとなったのが「良心」です。

 良心をめぐる議論はジョゼフ・バトラー(1692-1752)とアダム・スミス(1723-1790)によって、18世紀に二つの完成を見ます。バトラーは人間本性を三つの階層からなる一つの体系だと考えました。いちばん下の層にあるのは欲求・情念・情愛といった「個別的原理」、真ん中の層にあるのは自己愛や仁愛といった「一般的原理」、そして一番上の層にあるのが「反省の原理=良心」で、この良心が下の二つを監督しているというのです。ということは、たとえ自分の欲求や幸福に反する事であっても、良心の命ずるところには従わなければなりません。神学者でもあったバトラーは良心を「神の代理人」として捉え、その声に従うことは神の命令に従うことに他ならないと主張したのです。

 これに対してスミスは、私たちがある行為の是非をどのように決めているかという「道徳判断」のメカニズムの中で良心を論じました。彼は、道徳判断とは「観察者の感情」である、といいます。いま、Aさんのある行為をBさんが見ていたとしましょう。Bさんはまず、Aさんの感情を想像します。そして、自分がAさんの立場だったとしても同じように感じ、同じように行為するだろうと思えばその行為の正当性を認め、そう思えなければ認めません。スミスによれば、私たちは行為者に共感できるかどうかによって、その行為の是非を決めているというのです。

 他人の行為であればこれで判断できそうですが、自分自身の行為はどうでしょうか。スミスはこの場合、私たちは自分の心の中に「観察者」を立て、自分の行為がその観察者の目にどう映るかをチェックしているといいます。彼にとってはこの観察者(スミスの言葉では「想定された内なる観察者」)が良心に他なりません。バトラーが良心を神によってあらかじめ植えつけられたものと考えたのに対し、スミスはそれを他人の行為に対する道徳判断を経て、各自の心の中に形成されていくものと考えたのでした。

 このスミスの考えは19世紀のJ・S・ミル(1806-1873)とチャールズ・ダーウィン(1809-1882)によって継承されます。ミルはスミスと同じように良心とは先天的なものではなく、後天的に獲得するものだと考えました。しかしそれは道徳判断を下す能力を持った「観察者」ではなく、「心中の主観的な感情」、より厳密には道徳的否認の感情であるといいます。ミルによれば、良心とは私たちが悪いことをしたときに感じる「苦痛の感情」に過ぎず、良心の地位は大きく下げられてしまったのです。

 進化論で有名なダーウィンは、人間と動物の心理的能力を比較し、両者の間に根本的な差異がないことを示そうとしました。ダーウィンによると、良心とはある程度以上の高等生物が有している社会的本能に端を発するもので、他人の素晴らしい行為やふるまいを見たときに湧きおこる「原初的感情」です。あるものを見て美しいと感じる美的感覚と同じように、人間にはもともと道徳感覚が備わっているとするこの考えは、実はスミスの師にあたるフランシス・ハチスン(1694-1746)のもので、ダーウィンはスミスが乗り越えたこの議論を復活させたのでした。学問的には、これは明らかな後退です。それを証明するかのように、良心をめぐる議論は徐々に衰退し、やがて終焉を迎えることになります。

 バトラーとスミスによって二つの完成形が示されたにもかかわらず、良心論はなぜその命脈を絶たれてしまったのでしょうか。その背景には「自己愛」に対する態度の変化があると考えられます。バトラーの議論を見れば明らかなように、18世紀のモラリストたちにとって自己愛とは完全に信頼できるものではなく、良心による監督が不可欠なものでした。

 しかし、19世紀になると、「自己愛は、決して愚かなものではなく、また、個人にとっても社会にとっても有益である」といった考えが広まっていきます。それには、良心論の完成者の一人であるスミスの、個人が自己愛に従って行動することで、社会が豊かになる、という「見えざる手」の議論も大きく貢献しました。こうして人々が自己愛を信頼するようになると、良心を称揚する必要がなくなり、苦痛の感情(ミル)や原初的感情(ダーウィン)と見なされるようになったのです。

 人々の幸福を増やす行為を「正しい」とする功利原理が、今日に至る経済発展をもたらしたのは言うまでもありません。しかし、その功利原理自体は、はたして正しいのでしょうか。人々の幸福を増やすものだけが正しいのなら、社会の役に立たないもの、たとえば保護や支援を必要とする人たちはいない方がよいということになります。功利原理によって私たちは「損得」という明確な「モノサシ」を手に入れました。しかし、正しいか正しくないかという議論は、本来、得か損かとは別のものであるはずです。

 右肩上がりの経済成長が終わりを告げ、追い求めるべき「幸福」が見えづらくなっている今、改めて「正しいとは何か」という問いと向き合ってみる必要があるのではないでしょうか。良心をめぐる議論は、その大きなヒントになることと思います。