自由は、この世界のどこにも観察することはできない。そう主張したのはプロイセンの哲学者 イマヌエル・カント(1724-1804)です。そう言われても、我々人間は「自由」に行動していると思っているし、鳥は「自由」に空を飛んでいるし、魚は「自由」に海や川を泳いでいるように見えます。いったいなぜ、カントはこのように考えたのでしょうか。

 カントといえば『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書が有名ですが、その一冊目にあたる『純粋理性批判』の中で彼は人間の認識の限界を明らかにしようとします。私たちはふつう太陽や月、海、山、草木、他人といった、この世界の「物」そのものの姿を認識していると思っていますが、それは大きな間違いです。人間に知ることができるのは人間の認識能力が及ぶ範囲のことだけであり、それはこの世界そのものではありません。それは我々の感性(感覚)に与えられた多様な情報を知性(思考)が秩序づけるかぎりでのものであり、世界そのものではないのです。感性に与えられない物を我々は知りえないし、知性が秩序づけることのできないものを我々は知りえません。こうして、カントは、まず、私たちの感覚が及ぶ領域と及ばない領域の境界を画定しようとしたのでした。

 最初に述べた通り、カントによれば私たちの感覚の及ぶ領域には自由はありません。この領域では、私たちの身体を含むすべての物は因果律(=原因と結果の法則)に従うからです。何かが「自由」に起こっているように見えても、そこに必ず原因があるとしたら、それは自由とはいえませんよね。それでは自由はどこにあるのかというと、お察しの通り、私たちの感覚が及ばない領域です(ここには自由の他に「不滅の魂」と「神」が存在しているそうです)。でもなぜ、そんなことが分かるのでしょうか。カントはそれを、まず、私たちの理性が感性を越えて推論せずにはいられないものとして想定し、さらに、道徳によって説明します。

 道徳とは「すべきである」または「すべきではない」という命題で表現され、カントによればそれは二つの原理によって構成されます。一つ目の原理は「自分の行為や行為の方針が、誰もがそれをしても構わないものであるかどうかを考えなさい」というものです。自分だけでなく、世界中の人がしたとしても問題ない行為であればしてもいいが、そうでなければすべきではない、というわけです。二つ目の原理は「人を単なる手段として用いるべきではなく、常に同時に目的として扱うべきである」というもの。仕事であれなんであれ、他人の「道具」にされるのは気分のいいものではありませんよね。カントは、このような道徳法則は、誰かに教えられたり法律によって定められたりするものではなく、すべての人が先天的に知っているものだと考えました。このことはそのまま私たちが「自由」であることを意味します。なぜなら、自由でないとすれば「すべきである」とか「すべきではない」という命題は無意味になるからです。ただ因果律に従っているとすれば、つまり動物的な欲求に従っているとすれば、したいことでも、道徳的な意味ではすべきでない場合があり、したくないことでも、すべき場合があります。

 あれ、そうすると道徳が自由を説明したはずなのに、今度は道徳が自由に対立しているように見えますね? 自由と道徳は相反するもの、道徳とは自由を縛るものに過ぎないのでしょうか。この問いについて、今度はカントのいう「人格」から考えてみましょう。

 カントは人格を、あるいは人格であるところの人間を、「理性的で自由な行為主体」と定義します。これは、「自ら自由に目的を定め、それに向かって行為する存在」と言い換えてもいいでしょう。これを踏まえると、先述した道徳の第二原理「人を単なる手段として用いるべきではなく、常に同時に目的として扱うべきである」がより深く理解できます。私たちは一人ひとりが自分自身の目的を持ち、それに向かって行為する存在(=人格)であり、そのような存在をたんなる手段として用いてはならないのです。このことを、自由で理性的な存在である人格はすでに知っています。そして、その原理に自由に従って行為することができます。この原理にもしもすべての人が従ったら何が起きるでしょうか。他の人が自由に目的を立て、それに向かって行為することを誰も妨げなければ、すべての人の自由は共存し、調和し、自由が最もよく実現されるようになるはずです。一人ひとりが道徳に従うことで自由は抹殺されるのではなく、むしろ最大化するのです。

 以上、自由と道徳に関するカントの考えと、そこから帰結する自由の最大化について概説してきました。このような考え方に対して、「道徳の原理がその二つだという根拠は何か」「人が先天的に道徳を知っているとなぜ言えるのか」といった疑問や異論を持った方も、きっといらっしゃることでしょう。それこそが、実は何よりも大切なことです。カントの有名な言葉に「人は哲学を学ぶことはできない、せいぜい哲学することを学ぶことができるだけだ」というものがあります。哲学とは、偉い哲学者の言説を金科玉条として押し頂くことではありません。そうではなく、歴代の哲学者がそうしてきたように自分自身で問いを立て、考え続けることです。現代における自由と道徳の問題に「答え」を出すのは、カントではなく、哲学する私たち一人ひとりなのです。