自己分析に勤しむシューカツ生のみならず、自分がどんな人間なのか、考えたことのない人はいないでしょう。ある人は肯定的に、ある人は否定的に、ほとんどの人はその両面で評価する「自分」。しかしその「自分」は、決して、生まれながらに備わっているものではありません。
フランスの精神分析家ジャック・ラカン(1901年-1981年)によると、幼児は生後6カ月~18カ月の間に、鏡に映る自らの像を基にして、自我の最初の輪郭を形づくるそうです(この時期を「鏡像段階」といいます)。ここで重要な点は、鏡像が「自分そのものではない」ということです。言うまでもなく、私たちは自分の全身を直接見ることはできません。つまり私たちは「鏡像=自分ではないもの」を自分だと思い込むことによって、はじめて「自分」を手に入れるのです。
このような自我の形成過程を、ラカンは「シェーマL」という以下の図式を用いて分析しています。
この図によるとa(自我)がつくられるには、「A→S→a’→a」と「A→a」という二つの流れがあります。まずは前者から見ていきましょう。
先述した通り、S(主体)はa’(他者)を基にしてa(自我)を形成します。a’に入るものは自らの鏡像、母親、アニメのキャラクター、学校の先生、憧れの先輩、会社の上司など、成長や生活環境の変化に伴って変わっていくのが普通で、私たちの中ではその都度、新しい自我が生成されると考えられます。図に「想像的」とあるのは、この過程が言語的なメッセージによってではなく、鏡像が正にそうであるように、イメージによって進行することを意味しています。このような動きは、しかし、主体によってなされるのではありません。その背後には主体を操る真の主体A(大文字の他者)の存在があります。このAに入るものは言語、神、文化、国家、経済システムなどで、これらのもつ価値基準が、無意識のうちに、主体の認識や価値観を規定しているのです。これが「A→S→a’→a」の概略です。
もう一方の「A→a」は、自我が大文字の他者との関係によってつくられることを意味しています。実在する他者との関係である「a’→a」を「個別の商品のやり取り」にたとえるなら、「A→a」は「市場の動向」と捉えることができます。目に見える(「想像的」な)個別の商品のやり取りとは別に、他の無数の商品群の値動きへの対応が同時に行われるのが、いわゆる「市場の動向」です。この観点からすると、「自分」(自我)の価値を決めるのは「大文字の他者」(市場)であって、自分の価値を自分で決めることはできない、ということになるのです。
「性別」による形成過程の違い
自我がつくられていく過程には、「性別」による差異が少なからずあるように思われます。一般的に言って、男性が学歴、年収、肩書といった大文字の他者からの評価(A→a)を重視するのに対し、女性は実在する他者や目の前の相手との関係(a’→a)に重きを置く傾向があります。このことは女性が「見られる性」であることと無関係ではないでしょう。化粧をしたり、ファッションに敏感だったりするのは、女性が他者を見ると同時に、その他者から見られることによって「自分」を形成していくことの証左だといえるかもしれません。
大文字の他者にせよ、実在する他者にせよ、「自分」が他者(=自分ではないもの)との関係によってつくられることに変わりはありません。自分とはいわば玉ねぎのようなものです。これまで出会った人びとや、生きてきた価値体系によってつくられたさまざまな「自分」、その総体こそが自分であり、「本当の自分」があると思っていた中心には、実は何もないのです。
フロイトは、人間には自らの死に対する恐怖はなく、むしろ「死の欲動」があると言っています。それを受けてラカンは、「死の欲動」とは「直接的破壊の意志」であると述べており、その対象には自我のみならず、自我が生まれ出た(と思い込んでいる)ところの子宮さえも含まれます。「自分らしく、自由に生きること」が推奨されるいまの世の中。しかし、抑圧からの解放が自由だとするなら、私たちにとって最大の自由とは、自分を最も抑圧している「自分自身」から解放されることなのかもしれません。