仏教を日本に広め、憲法十七条を定めたとされる聖徳太子。日本の歴史上、彼ほど尊崇された人物はいないのではないでしょうか。しかしその理由は、時代によって様々に変わってきたのでした。
生きているときから「仏に準ずる存在」だった聖徳太子は、死後「観音の化身」「浄土の導き手」といった信仰の対象になっていきます。やがて戦国時代になると、物部守屋を打ち破ったことから、太子に祈れば戦争に勝てるという「戦の神」へ、江戸時代になって世の中が平和になると、四天王寺・法隆寺などをつくった「大工の神様」へと変化します。
江戸後期になって国学や儒教がさかんになると、「聖徳太子は仏教などという野蛮な異国の宗教を持ち込んだとんでもないヤツだ」という見方に変わり、これが明治の初めごろまで続きます。しかし、日本が列強の脅威にさらされ、不平等条約を結ばされると、「列強に伍していくには、西洋の技術や文化を取り入れなければならない」という機運が高まり、太子の見直しが始まります。大陸の文化を取り入れながらも自主的に取捨選択をし、より優れた解釈を打ち出した聖徳太子こそが日本人の理想であるとされたのです。
太平洋戦争がはじまると、すべての国民は天皇の元で一致団結、すなわち「和して」戦わなければならないということで、文部省から「和」を説き、天皇への忠誠を強調した「憲法十七条」に関する解説書が全国の学校へと配布されました。国家主義的な聖徳太子像の誕生です。ところが、終戦を迎えると、「聖徳太子は平和と話し合いの意義を説いた」ことになり、今度は「民主主義の元祖」として奉じられることとなりました。
このように、日本の歴史とは、聖徳太子のイメージの変遷史だということもできるでしょう。各時代の人々は、自分たちの理想を聖徳太子に読み込み、シンボルとして利用してきたのです。
千四百年にわたって日本人の「カガミ」であり続ける聖徳太子。曹洞宗の開祖道元は、「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言いましたが、「聖徳太子とは何者か」という問いに答えることは、私たちの生きている時代を、そして私たち自身を考えることなのかもしれません。