日本列島にホモサピエンスが暮らし始めたのは、約3万8千年前の後期旧石器時代からだと考えられています。当時の日本列島は本州、四国、九州がまだ分離しておらず、北海道はサハリンを介して大陸とつながっていました。恐らくは朝鮮半島から渡ってきた人びとはまず九州で暮らしていたらしく、もっとも古い3万8千年前頃の遺跡が宮崎で見つかっています。ただ、静岡周辺でも3万6、7千年前の遺跡が出ていることから、人びとは長期間九州に留まっていたのではなく、わりと一気に列島全域へ進出していったと考えられます。
後期旧石器時代は氷河期に当たります。氷河期というと北極や南極のような気候を想像するかもしれませんが、日本列島はそこまでではなく、当時の東京がいまの札幌と同じくらいだったようです(むろん時期にもよりますが)。それに伴って植生も北寄りになりますが、日本の場合は黒潮の影響で九州の南や関東の太平洋沿いは比較的暖かく、一部照葉樹林などもあったと考えられます。このような環境での暮らしとは、一体どのようなものだったのでしょうか。
近年の研究により、後期旧石器時代前半期の集団はかなり広域を移動していたことがわかっています。なんせ、東京で札幌の寒さです。夏は群馬の山の中で暮らしていた人びとが、冬には千葉あたりまで降りてきていたということも十分に考えられます。
移動の理由には、もちろん食料もあります。ヘラジカの群れが川を渡るのはいつか、ウサギがよく出るのはどこか、ベリーやナッツはどこになっているか。さらには、石器の材料となる石の問題。驚くべきことに、東京の遺跡から伊豆七島の一つである神津島の黒曜石が出土しています。人びとは黒曜石を採るために、舟で海をわたっていたのです。
このように、気候、食料、石材といった要素がかれらの移動のスケジュールを決めていたことでしょう。定住しない狩猟採集民といっても、その移動は決して行き当たりばったりの「放浪」ではなく、生きていくための、明確な目的をもったものだったに違いありません。
そんな後期旧石器時代の暮らしを解明する手がかりの一つに、長野県の日向林(ひなたばやし)B遺跡があります。野尻湖遺跡群の一つに数えられるこの遺跡からは、一遺跡では最多となる60本の石斧(せきふ)が出土しています。一つの遺跡から出土する石斧はふつう数本で、一本も出ない遺跡も珍しくないことを考えると、60本という数は突出して多いといえます。日向林B遺跡からは、なぜ、これほど多くの石斧が見つかったのでしょうか。
日向林B遺跡の石斧の特徴として、二つの点をあげることができます。
一つ目は小型品が多数を占めるということ。折れている6点を除いた54点のうちの実に40点が10㎝未満で、4㎝から6㎝のものも9点見られます。これほど小さな石斧は全国的に数が少なく、多摩川流域の遺跡からはまったくといっていいほど見つかっていません。
二つ目の特徴は石材です。日向林B遺跡の石斧の多くは「透閃石岩(とうせんせきがん)」という石で作られています。この透閃石岩は比重が重くて硬度も高いため、石斧には非常に適した石材ですが、日向林B遺跡の近くでは採れません(野尻湖周辺は石材が乏しい地域なのです)。透閃石岩の産地だったと考えられる白馬村松川上流部までは直線距離で約40㎞あるため、この遺跡で暮らしていた集団が石材を手に入れるには、フルマラソンほどの距離を移動する必要があったということになります。
ここで、当時の人びとの身になって考えてみましょう。もしもいま滞在しているのが石材の乏しい場所だとしたら、欠けたり折れたりした石斧をカンタンに捨ててしまうでしょうか。普通に考えると、欠けた刃部をもう一度研磨したり、新しく刃部をつくったりして、なんとか再利用しようとするのではないでしょうか。つまり、日向林B遺跡から出土した小型の石斧は、このようにして再加工され、小さくなったものだと考えることができるのです。恐らく、それらの一部はもはや「オノ」としてではなく、別の用途に使われていたことでしょう。
日向林B遺跡の石斧の多さはこれで説明できますが、今度はもうひとつ、別の疑問が浮かんできます。後期旧石器時代の遺跡とは、人びとがある一時期をそこで過ごしたことを示す痕跡です。そのため、遺跡から出土するものは次のキャンプ地に持っていかなかったもの、つまりはそこに「捨てていったもの」だと考えるのが普通です。小型のものが多いとはいえ、はたしてこれほどの数の石斧を一か所に捨てていくでしょうか。この問いを考える上では現代の狩猟採集民、イヌイット(エスキモー)の行動が参考になるかもしれません。
カリブー(トナカイ)などの獲物を追って雪原を移動するイヌイットの人びとには「キャッシュ」という慣習があります。これはライフルの弾やロープといった狩りに必要なもの等を備蓄しておく場所のこと。広大な雪原のあちこちにキャッシュをつくっておくことで、いざという時、ベースキャンプまで戻らなくても補充ができるわけです。もうおわかりですね。日向林B遺跡に滞在した集団はそこに石斧を捨てていったのではなく、この場所を「キャッシュ」として利用していたかもしれないのです。
日本では火山灰起源の酸性土壌が溶かしてしまうため、後期旧石器時代の遺跡からは骨がほとんど出土しません。そのため、非常に限られた資料から当時の暮らしを推測していくことになります。石材の産地研究、使用痕分析、DNA鑑定、そして時にはキャッシュのように、現代の民族調査から分析モデルを構築することもあります。
これには、現代の、しかも遠く離れた地域の慣習を3万年以上前の暮らしの参考にしていいのか、という批判があるかもしれません。しかし、当時の人びとの「中身」は私たちとまったく同じです。寒くなれば暖かい所に行き、お腹が空けば食事をとり、新しいものが手に入らなければ今あるものを大事に使い続ける。過酷な環境を、限られた道具と創意工夫で生き抜いたかれらの姿に迫るには、私たちも、「使えるものは全部使って」、研究を進めていく必要があると思います。