チッソ株式会社の水俣工場が排出したメチル水銀によって、痙攣や運動失調、視野狭窄などさまざまな症状が生じる水俣病。誰もが知る公害病ですが、その被害者は日本人だけなのでしょうか。1950年の国勢調査によると、水俣市に居住する外国人でもっとも多い国籍は「朝鮮」で309人、その次は復帰前の「沖縄」で20人、さらに「中華民国」が4人と続きます(もちろん水俣病の被害地域は水俣市に限りません)。外国人の水俣病への罹患状況についての調査研究は立ち遅れており、もっとも多い「朝鮮」の国籍をもつ人々についても同様です。

 そこで私は、水俣病に罹患した朝鮮人について調査することにしました。実際に罹患した朝鮮人はいるのでしょうか。いるとすれば、どのような生い立ちで、どのように罹患し、どうやって生涯を過ごしたのでしょうか。

水俣と朝鮮

 熊本県最南部に位置する水俣市は、人口21,607人(2025年1月1日現在)(1)、面積163.29㎢、西側は「魚(いお)湧く海」と呼ばれる漁獲量の豊富な不知火海に面し、東側は城山や鬼岳などの山岳がそびえています。1956年に公式確認された水俣病は、日本窒素肥料株式会社(現JNC株式会社。以下「チッソ」と呼称します)水俣工場が、海や河川にメチル水銀化合物(有機水銀)を排出することによって生じました。このメチル水銀を、住民が海産物を通して日常的かつ長期間にわたって経口摂取し、水銀中毒が集団発生した公害病です。患者たちの苦しみはいまなお続いており、患者の認定をめぐっても裁判が続いています。

水俣市街

 水俣と朝鮮の関係史を紐解く上で、チッソ水俣工場の前身が、朝鮮の興南に置かれていたことは重要です。チッソは戦前の植民地主義に乗じ、1920年代中頃から朝鮮に進出しました。朝鮮水力発電株式会社と朝鮮窒素肥料株式会社の二社を設立したのです。とくに興南には大規模な工場群が建設され、硫安(りゅうあん)や硝安(しょうあん)といった肥料、カーバイドやアセトアルデヒドといった化学物質の生産がおこなわれていました。興南工場で勤務する朝鮮人は労働内容も賃金も日本人に比べて劣悪な条件下に置かれ、水俣病と酷似した「興南病」も発生していたのです。(2)

 しかしながら今回のコラムで扱うのは、いまだに先行研究が蓄積されていない、水俣病に罹患した朝鮮人についてです。『熊本県統計年鑑昭和25年』(熊本県総務部統計課、1951年)では、1950年時点での水俣市の人口が43,661人で、これに占める朝鮮人の人口は男189人、女120人の合計309人とされています。(3) この人々の水俣病の罹患状況について、十分に眼差しが向けられてこなかった過去に思いを凝らし、甚大な水俣病被害の一端を把握するための布石にしたいと思います。

洲上朝市のケース

 水俣から朝鮮に直接出漁したケースは、管見の限り見当たりませんが、水俣の茂道から朝鮮へ大根を売りに行ったという話は存在します。(4) 朝鮮まで小船で大根を売りにいくことが可能であるなら、出漁することも可能であったでしょう。

 水俣の対岸に位置する天草は、朝鮮との地理的な距離がより近く、直接出漁するケースが目立ちました。とりわけ戦前からタイ漁が盛んな天草の宮田村(現天草市倉岳町宮田)が突出していました。岡本達明『近代民衆の記録7――漁民』(新人物往来社、1978年)によると、帆船の時代には朝鮮近海まで遠洋漁業に繰り出していたのです。発動機船が出現すると、大連や青島まで遠征し、大連には漁のための根拠地も置かれていました。年末には大漁旗を立てて威勢よく宮田に凱旋していましたが、アジア・太平洋戦争の勃発により、遠洋漁業の道は閉ざされました。(5)

天草・宮田漁港

 また、宮田村では遠洋漁業に家族を連れてゆくという特殊な形態も存在していました。その一方、子供のいない漁師の中には、単身で出漁する者もいました。そして現地で朝鮮の子供に懐かれ、そのまま船に乗せて帰って来るケースが存在したのです。次に記載するのはその事例です。

●御所浦島嵐口・崎田清松(明治26年生)の話

(天草上島の)宮田辺りにゃ、朝鮮から子供なんかば連れて来とる者の居っでな。仕事さするために自分の子供にして。矢張(やっぱ)、あン頃は朝鮮は食物が悪かったっじゃな、もう船さン来れば、行こうでせンとじゃもン。追いやらんば、抱えて降ろさンば行かんとやっで。始めにゃ、恐ろっせ来ンが、馴るればなんさま遊び来て、船ン乗って飛っされて(飛び回って)もう危のうして。子供は魚どン船に干しとれば、すぐ持ってはって(逃げて行)きよったもンな。菓子買うて御馳走(ごっつお)すれば、船から動かんとやもン。そして、動かんもンで、こるば躾(しつ)くれば為になるばいて、いう如(ご)たるふうでな。

亀どんな、木浦(もっぽう)から一人連れて来らいたっじゃっで。そン人は、一人連れて来らいたが、宮田に何人も何人も来とっと。子持たん者な良かっじゃもね、あんた。連れて来て自分の籍に入れて。そん頃まじゃ、私生児てありよったでな。そっで、どがンでンしてよかりよったもン。役場に届けて。そンかわり、矢張、年ば少のう言わんば、つまらんどで、あんた。自分が生んだ事にするわけ。亀どんな宮田の人で、水俣の湯堂に来らった。亀どんな、俺な、何でン言っ聞かせよったっばな。そン息子もこの頃死ないたが。(6)

 証言のなかにある「亀どん」とは、漁師の洲上亀次のことです。木浦から子供を一人連れて来たとあります。亀次が連れてきたのは洲上朝市(1900~1972)一人ですが、宮田村には朝鮮から何人も子供が連れられてきています。(7) それらの子供たちは、連れてきた漁師たちの戸籍に入れられ、役場に届け出るときには、年齢を少なめに申告されたといいます。次の証言は、日本に連れられてきた朝鮮人の子供たちが、朝鮮で置かれていた状況について語っています。

●天草宮田・砂原岩彦(明治31年生)の話

朝鮮は木浦でも群山(くんさん)でも、町に子供が何ぼでも居ったですよ、親なしの。捨て子したりなんだりして養いきらずに。どうしあんた、塵捨場に捨ててある残飯なんか、あがんとば拾うて食うて歩(され)くとじゃがな。何処の都会の港に着けてもそういうとが居りよったっです。そげんとば、人相の良かったりなんだりすっとば選って船に乗せて、子守りさせたりなんだりするのに、こっちゃん連れて来よったですよ。そっで、もうどの船も一人ぐらいずつは乗せっ来よったっですよ。向うも喜んどるわけ、食うか食わんかしとっとやけん、日本人の舟に乗れば魚食わせて、良かもンですから。そいで(それで)だんだん乗って来とってから、後は立派な船員になるような者も出てくるでしょうが。儂も何人も連れて来たっですよ。次郎とか一郎とか名前つけて、どれも性の良かっばかりじゃった。たいがい儂がた次郎じゃった。一郎ちいうとは、小まい時から、子守のできる頃から、乗せて馴れかして居ったでしたが。(8)

 この証言からは、朝鮮の子供を日本に連れ帰ってくる行為が、拉致や略奪とは一線を画し、双方の合意のもとに行われ、互恵関係すらもたらしていた可能性が窺えます。つまり、朝鮮の木浦や群山には親なしの子供たちが溢れており、食うか食わずかの毎日を送っていました。一方、子供のいない日本人漁師たちは、そういった子供たちに対して生活の保障をする代わり、働き手として漁船に乗せて連れ帰って来たのです。

 洲上朝市もそのような「親なし」の子供の一人であったことが、以下の荒木幾松・ルイ夫妻の証言から見て取れます。荒木夫妻は、水俣において、朝市を連れ帰った亀次から生活面で頼りにされていました。

●湯堂荒木幾松(明治33年生)・ルイ(明治43年生)の話

じさん 朝市は死んだもね。ありゃ、終戦になって朝鮮から引き揚げて来たっです。

ばさん その人のじいさんにならっとが亀じいさんて、ここに居らったったい。

じさん 天草の宮田で、朝鮮に一本釣り行きよって。

ばさん そして、朝鮮人の子ば、朝市どんば拾うて来たち、俺共にゃ語って聞かせよらったったい。朝市な、子供(こまん)かとき海辺に居ったっば、「助けてくれろ」て、言うたっば、乗せ来たち、亀どんが言うて聞かせよらったったい。亀どんな、天草からガンタレ(ぼろ)船に乗って、俺が如(ご)てガンタレ着物どン、ひっ切れ帯どン来て、この人(幾松)のおっ母さんの名前ば言うて、うち尋ねて来らったわけたい。そン親共がおっ母さんば知っとったわけでしょう。そげンして名乗って来らるもンじゃっで、可哀想(ぐらしか)で、まあ助くるち意味じゃなかばってんさい、お互いカライモでン食い合わせたりして、何の彼(かん)のしよるうち、湯堂が良かろうちことで引き揚げて(移住して)来らった。そして、亀どんを頼って、朝市どんも来らったわけ。そりゃ、戦争に負けてからたい。

(中略)                                                                                       

じさん 朝市どんな、魚の好きじゃったもン、どもこも。

ばさん 魚でンタコでン釣って来て朝も晩も食うてさい。魚でン何でン板の上に乗せてこしらえるどが。刺身してから醤油も何もつけでな、刺身ば(に)する(する)方(そば)で(から)食わったっちもね。そげン好きち。醤油つけりゃ甘味がないち。タコも人一倍(よこれ)上手やったもンな。釣って来られば、俺共もまたドッコイショでうんとこせ貰うて噛むしてさい、あーあ、もう。誰も彼もやられてしもうて。朝市どんな、俺共が裁判するときゃ、生きとらったっじゃ。裁判の証人には俺が立つち言うつな。「俺がボラ釣り行くときは会社が汚なか品物ば流しとって、俺見とっとざン、何ば会社が暴言ば言うか」ち、その余の立腹ちゃなかったな。そるばってン、何処にも行きゃ得られるん如つならったがな。月の間に。

じさん 水俣病に認定されて、下痢するとか何とかで山田先生の所言って、儂も胃のカメラ見たっじゃが、つまらんち言うつ市立病院で手術ばしたっですたい。手術してみたら、開けてみたらそれで仕舞(しめ)えやった。どもこもしやならんち、言うてな。

ばさん もう痩せてなあ。一週間ばっかり生きとったですばってン、何もしや得でな、オロンオロンして、飯も食やならん、何もしやならんち、まこてーかわいそうかったっですばい。

じさん 親の亀どんも早う水俣病で死なったもンなあ(未認定)。(9)

 証言の前半では、朝市と亀次の出会いについて、(10) そして終戦後に朝市が亀次を頼って朝鮮から水俣に引き揚げて来た経緯が語られています。後半では、朝市が水俣病に発病した当時の状況について語られています。朝市は魚が好きで、タコを獲ることに長けていました。荒木夫妻も朝市が獲ったタコを貰うことがあったといいます。そして荒木夫妻の患者認定裁判の際には健在で応援していましたが、一ヶ月間でどこへも行けないほど症状が悪化してしまったといいます。

 次に、朝市の妻・マサの証言を見ていくこととします。マサは1908年に新潟県の高田に生まれ、東京の警察病院での就労に伴い上京。10年間勤めた後に朝鮮へ渡り、京城の病院で勤務します。その地で結婚して男児を出産するも、伝染病で夫が他界。子供を新潟に預けて釜山で看護師として働き仕送りを続けます。そのころ朝市を紹介され、1942年に結婚します。子供を引き取って釜山の学校に行かせ、日本人漁師町の釜山の牧島に住みます。敗戦により、当時亀次が天草から移住した水俣の湯堂に引き揚げてきます。水俣に来た当初、朝市は漁師として、マサは公共職業安定所の職員として労働していました。しかし水俣病で魚が獲れなくなると、マサは朝市に安定所の仕事を譲り、自らはチッソの請負業者である西松組に勤めます。それから4~5年が経ち、ついに朝市の症状が悪化します。

主人は、原田先生に診断書書いてもらって市立病院に入院しました。私は付いてないといかんし、どもこもならんから、生活保護してもらいました。で、開けてみなったね、手術したわけなんですよね。開けてみたら、腸もね、腹の中も全部くさってたのね。手術の時間、長くかかりましたもんね。普通なら縫合しますけど、縫合しないで開けっ放し。中がザクロのようになってました。そのとき私も退院して間もなかった。病み上がりだった。あ、これはだめだなと思いました。手術して10日ばかりで死にました。子供とその嫁さんに手取られて死んだ。だから満足したんじゃないですか。

死ぬ前に、主人も私も水俣病に認定されました。判決の前ですよ。金額がまだ決まってないから、100万か200万かくれるだろうて思ってたんでしょう。(中略)(主人は)死人ですから、一番に下りたんじゃないですか。補償金は子供にやらんばしようがないでしょうが。そのとき1800万に利子やら付いて2000万ちょっとでしたかね。(11)

 朝市の最期に関する生々しい証言です。市立病院に入院して手術を試みたものの、開腹したところすでに手の施しようのない状態で、縫合すらしないまま10日ほどで亡くなったといいます。死亡する前に朝市もマサも水俣病と認定され、朝市に対する補償金は利子などを入れて2,000万円強でした。

 水俣市湯堂に生まれ育ち、洲上マサのことを記憶する村上文世さん(1951~)は、筆者の聞き取りに対し、マサが標準語で話し、物静かで上品で落ち着いていたと語ります。いつも自宅で縫物をしており、村上さんの実家が営んでいた雑貨屋に買い物にくることもなく、つましい生活をしていたように感じるといいます。一方、朝市を見かけるときは、着物姿が多かったそうです。当時、老人が着物を着るのは一般的で、冬は長めの綿入れを羽織っていました。また、岡本達明の聞き書きに同行したほたるの家の伊東紀美代さん(1942~)は、朝市が体格の大きな立派な人であったことを覚えていると筆者の聞き取りに対して語りました。

 天草の漁師に連れられて日本にやってきた朝鮮人の子供は、岡本(1978)の証言に見られる通り、数知れません。また、天草から水俣に移住することは、「天草流れ」という言葉が存在するように一般的です。しかし、朝鮮出身で天草を経由して水俣に辿り着き、水俣病を発病したケースについては、現在のところ朝市の一例しか確認できていません。(12) ここではそんな朝市の生涯を辿ってみましたが、実際には他の事例があったとしても不思議ではないのです。

朝鮮人集落

 少年時代に日本人漁師と共に来日し、日本国籍に入った朝市のケースとは別に、いわゆる在日朝鮮人として水俣に居住していた人々の水俣病の罹患状況について見ていきます。水俣病が公式確認される前後、水俣市内に居住する朝鮮人がおかれていた状況について、元チッソ工員の中村和博(1923~2023)は、次のように語っています。

朝鮮の人は終戦になったら、岡部病院の向かいに衣料品の大きな店を作っていましたよ。

それと、八幡宮の通りに朝鮮人の集落があって、戦後そこの人たちが焼酎の製造を始めたんです。密造酒ですから、水枕に入れて売ってました。昭和二五年、私たちの結婚式ではそこの焼酎を使いましたね。焼酎は貴重品でしたもん、まだまだ昭和二五年じゃ。(13)

 闇焼酎については、筆者の聞き取りにおいても、当時のことを記憶する複数の人々が自明のこととしてその存在について語っています。中村の証言にある通り、朝鮮人集落の居住者たちが闇焼酎(カライモ焼酎)を製造し、日本人がそれを買っていたというものです。

 朝鮮人集落は、戦中から濱八幡宮の近隣に存在しました。それと同時に、岡部病院の向かいと旭町商店街にも朝鮮人が集住している地域がありました。濱八幡宮の神社関係者・Oさん(1951~)は筆者の聞き取りに対して、濱八幡宮近隣の朝鮮人集落は、アジア・太平洋戦争中から存在したものの、周辺と対立・抗争が激しく、盗難も頻発していたと語りました。Oさんによると、行政によって1961年に強制撤去されたといいます。

 同時期、在日朝鮮人の帰還事業によって北朝鮮に帰国する人々と、水俣に残る人々とに分かれることとなりました。チッソの労働組合が発行している新聞『さいれん』1959年10月30日付には、次の記事があります。記事の前半を抜粋します。

祖国への歸還

おめでとう

在日朝鮮人帰国祝賀会開催

すでに新聞、ラヂオなどで発表されておりますので、みなさんもご存知と思いますが、朝鮮の人たちが、晴れて祖国へ帰還されます。

水俣からの帰国者は二一〇名とのことです。水俣地協では、市当局その他の諸団体の協力を得て「朝鮮人帰國歓送市民の夕べ」を開催することになりました。(14)

 第1次帰国船が新潟港を出港したのは、1959年12月14日です。上記の記事にある祝賀会は、それに間に合う日程(1959年11月2日)に水俣市公会堂で開催されました。水俣からは210名が帰国すると記載されています。帰還事業において、北朝鮮は「地上の楽園」と標榜されましたが、実際に帰還者たちが北朝鮮で味わったのは、楽園とは似ても似つかない差別と苦しい生活でした。(15) Oさんは「水俣に残って商売した人たちのほうが、豊かな生活を送った」と一般的に言われていると語りますが、無理のない話でしょう。

 村上文世さんは90歳代の男性から聞いた話として、戦時中にチッソ裏門の近くに女郎屋(風俗店)があり、そこでは在日朝鮮人の女性も女郎(娼妓)として働いていたといいます。その朝鮮人の女性に対して、子供ながらわいせつな言葉を発したことを、男性は記憶しているといいます。

 チッソの従業員としてチッソの社宅の中で守られて暮らす在日朝鮮人が一部存在したものの、朝鮮人集落や女郎屋の従業員など、厳しい環境下で生活する在日朝鮮人が大半でした。また、村上さんの小学生時代の話として、同級生が友人の家に行き、その家のお母さんが片膝を立てて座っている姿を見て、初めて在日朝鮮人だと気付くケースもあったといいます。在日朝鮮人であることが分かったからと言って、子供同士で仲が悪くなったり、いじめたりしたという話は聞かなかったといいます。

 このように、あくまでも日本人の子供の目からは、在日朝鮮人が違和感なく社会のなかに溶け込んで暮らしているかのように見える一面も確認できます。(16) そのような中、朝鮮人の水俣病の罹患状況について調査を求める動きがありました。1984年6月5日付『朝日新聞』に次の記事が掲載されたのです。

朝鮮人の水俣病調査を訴え

患者連盟の川本委員長

チッソ水俣病患者連盟の川本輝夫委員長は四日、熊本県水俣市で開かれた社会党熊本県本部と同県労評の合同水俣病問題調査団との話し合いの中で「水俣病発生当時、水俣市内で生活していた朝鮮人が多数、水俣病に侵されて帰国したり、県外に出た可能性が強い」として調査の必要を訴えた。これに対し馬場昇団長(党県本部委員長)は調査を約束した。

川本委員長の説明によると、昭和三十一年の水俣病公式発見当時、水俣市内に約百七、八十人の朝鮮人が住んでいたことが熊本県などの調査で明らかになっている。うち八割が三十六、七年ごろまでにかけて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に引き揚げ、残りの一部が京阪神方面に転出したという。ところが川本委員長が調査した結果、市内在留の朝鮮人のうち二人が水俣病患者としてすでに認定されていたことがわかった。(17)

 上記の記事が掲載された後、朝鮮人の水俣病罹患状況に関する調査が、実際になされた形跡は、管見の限り見つかっていません。記事中にある川本輝夫(1931~1999)の長男、川本愛一郎さん(1958~)に聞き取りしたところ、「その後、動きがあったとは父からも周囲からも聞いていない。そのまま止まっているのでは?」ということでした。また、チッソ水俣病患者連盟事務局長の高倉史朗さん(1951~)も、「記事が出た記憶はあるが、その後どうなったかは覚えていない」と筆者に語りました。記事中にある馬場昇(1925~2015)の著作にも、朝鮮人の水俣病被害の調査についての言及は見当たりません。今のところ、残念ながら調査はおこなわれなかったか、おこなわれたとしてもその成果は公開されていないと判断せざるを得ません。

 水俣病センター相思社の資料室には、朝鮮人の水俣病罹患について触れられた資料として、以下の書簡が保管されています。これは、自らの日本国籍を主張し、日本政府の在日朝鮮人関係の政策を追求してきた宋斗会(1915~2002)に関するものです。

昨年、宋さんが水俣を訪れ、在日朝鮮人で水俣病にかかっているものがいないかどうか聞いてまわり、事実2~3人いることがわかったわけです。今までの水俣病の闘争の中で、なぜ同じく水俣病にかかった朝鮮人のことがとり上げられないかを質問し、「外国人だからしかたないでしょう」との返事がかえった(ママ)ことをひとく憤がいして、僕に話されたことです。(18)

 上記書簡は、「金鐘甲さんの裁判をすすめる会」の兼崎という人物によって綴られています。宛先と投函日時は不明です。金鐘甲が日本政府に対して日本国籍確認と損害賠償を求めた裁判がおこなわれたのは、1975~89年にかけてであるので、その間に綴られた可能性が高いでしょう。在日朝鮮人で水俣病に罹患したのが2~3人とする宋の調査は、『朝日新聞』の記事における川本の「二人」とする調査結果とおおむね齟齬がありません。

 しかしながら、日本人の水俣病認定の状況を見ても、認定される患者は氷山の一角です。仮に在日朝鮮人の認定者が1984年時点(『朝日新聞』の記事掲載時点)で2人であったとしても、実数はさらに多いことが予測されます。日本人ですら申請することに心理的葛藤がある以上、在日朝鮮人という社会的マイノリティーの人々が申請することに伴う心理的葛藤は、想像するに余りあります。

光が当たるきっかけを

 今回のコラムでは、水俣病に罹患した朝鮮人として、まずは洲上朝市のケースを取り上げました。朝鮮に生まれ、日本人漁師の亀次と出会い、天草と釜山を経て水俣に辿り着き、水俣病によって死去した朝市。その生涯の軌跡を、複数の証言から見つめました。戦前の天草において、朝鮮の子供たちが日本人の漁師と共に来日し、戸籍に入ったことは一般的でした。しかしこのこと自体、全国的にどの程度認知されているでしょうか。5歳頃に来日した可能性の高い朝市は、戸籍上は「日本人」であるために、厳密には朝鮮人とは言えません。しかし、朝鮮人として朝鮮に生まれたことは事実であり、そんな朝市が水俣病で死亡したことも事実です。

 また、その他の朝鮮人の水俣病の被害を考えるにあたり、まずは水俣病が公式確認された時期における在日朝鮮人の生活状況を概観しました。濱八幡宮の近隣に存在した水俣最大規模の朝鮮人集落は、その中で闇焼酎が製造され、日本人によって購入されていました。朝鮮人集落は治安が悪いとされ、朝鮮人集落の内外での抗争も激しかったのです。岡部病院の向かいと旭町商店街の中にも、朝鮮人集落が形成されました。

 チッソ水俣病患者連盟の川本輝夫は、社会党熊本県本部と同県労評の合同水俣病問題調査団に対し、在日朝鮮人の水俣病の罹患状況についての調査を依頼し、馬場昇団長が調査を約束しました。しかしその後、調査がなされた形跡は見当たりません。川本は独自の調査によって、1984年時点で、2人の在日朝鮮人が水俣病に罹患しているとしています。また、宋斗会も水俣を訪れた際に独自の調査をおこない、水俣病に罹患している在日朝鮮人が2~3人いるとしています。しかしながら、川本と宋による調査はあくまでも個人レベルで、これらの調査結果の詳細が広く公に開示されることはありませんでした。

 また、日本に在留した朝鮮人の水俣病被害についてはもちろん、帰還事業によって北朝鮮に帰国した人々の中に、水俣病の症状に苦しむ人もいたのではないかと推測できます。そのような人々の実態についても現在のところは不明です。

 チッソ水俣工場がメチル水銀を含む排水を垂れ流した1936~1968年の間に、水俣市とその周辺地域に居住し、不知火海の海産物を日常的に口にしていたすべての人は、水俣病に罹患している可能性があります。そこにおいて、民族や国籍の違いは、まったくもって関係ありません。いわゆる日本国籍を持たない人々の被害状況について、その把握が立ち遅れている現状に、忸怩たる思いがします。今後も調査を継続し、広く日本人以外の人々にとっての水俣病被害について、光が当たるきっかけを作ることができればと考えます。

天草上島の倉岳から眺める水俣

※本稿は「水俣病になった朝鮮人――洲上朝市と朝鮮人集落」李熒娘編著『韓国・朝鮮の近現代史と日本』(中央大学出版部、2025年)の内容を下地としました。


注釈

(1)水俣市役所HP(2025年4月5日最終閲覧)https://www.city.minamata.lg.jp/kiji00315/index.html

(2)チッソの朝鮮進出と興南工場については、岡本達明(2000)『聞書水俣民衆史第5巻植民地は天国だった』草風館をご参照ください。また、興南病についての論考として、石原信夫(2018)「興南病は何であったか?」『産業衛生学雑誌』(60-6)が挙げられます。

(3)熊本県総務部統計課編(1951)『熊本県統計年鑑昭和25年』熊本県総務部統計課、16-17頁。

(4)杉本肇(1973)「茂道部落」『「水俣」患者とともに』1973年11月25日付。

(5)岡本達明(1978)『近代民衆の記録7――漁民』新人物往来社、174頁。

(6)岡本達明(2015)『水俣病の民衆史第五巻補償金時代1973-2003』日本評論社、318頁。

(7)そのため、どこから来たのか分からない子供や、いつの間にかその家の子供になっている場合、「朝鮮の子ではないか?」と言われることがありました。

(8)岡本達明(2015)『水俣病の民衆史第五巻補償金時代1973-2003』日本評論社、318-319頁。

(9)岡本達明(2015)『水俣病の民衆史第五巻補償金時代1973-2003』日本評論社、319-321頁。

(10)マサの証言の中に、「主人の話では、もう五つぐらいから船に乗ってたていうもの」(岡本、2015年、327頁)とあります。ここから、朝市と亀次の出会いは、朝市が5歳ぐらいの頃と推測することができます。

(11)岡本達明(2015)『水俣病の民衆史第五巻補償金時代1973-2003』日本評論社、330-331頁。

(12)朝市の場合、正確には天草から釜山に移住し、そこから水俣に移住しています。

(13)葛西伸夫(2023)「元チッソ工員中村和博さんインタビュー」『ごんずい』(169)3-4頁。

(14)『さいれん』昭和34年第22号10月30日付。

(15)清武英利(2003)「明らかにされ始めた四〇年目の真実北朝鮮帰還事業の悲惨」『中央公論』(118)2

(16)あくまで当時子供だった日本人の視点であり、在日朝鮮人の視点ではありません。周知の通り、一般的に日本社会において在日朝鮮人は進学や就職において大きな障壁があり、それが水俣に存在しないことは確認できていないのです。

(17)『朝日新聞』1984年6月5日付。

(18)書簡「金鐘甲さんの裁判をすすめる会・兼崎」。