韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼして天下を統一し、中国史上初の「皇帝」となった秦の始皇帝。始皇帝といえば万里の長城の建設や郡県制度の施行、度量衡(=長さ・体積・質料の計測単位)の統一などと共に、「不死の薬」を探し求めたことが知られています。『史記』の秦始皇本記にはこんなエピソードがあります。
「不死の薬」を見つけ出すと献言して始皇帝から巨額の費用をせしめた方士徐福だったが、数年の探索を経てなお見つけられずにいた。始皇帝の叱責を恐れた彼は「不死の薬は入手できるのですが、大魚が行く手を阻んでいるのでございます」と、嘘の言上をする。これを真に受けた始皇帝は、さらに占夢博士の夢判断によってこの大魚が「悪神」であるとの教示を与えられたため、連発式の弩(いしゆみ)を準備し、自らその大魚を射止めようとする。山東半島の琅邪(ろうや)から半島の突端に位置する栄成山まで行っても大魚は現れない。之罘(しふ)でついに出現し、これを射殺した。
同じく『史記』の淮南・衡山(わいなん・こうざん)列伝には、淮南王の臣下である呉被が以下の説話を用いて王を諫(いさ)めたとあります。
「不死の薬」を得られなかった徐福は始皇帝に言い訳をする。「私は海中の大神に遭遇しました。不死の薬を探していると告げると海神は『秦王は礼が薄いので、見ることはできても手にすることはできぬ』と言います。そして海神は私を蓬莱山(ほうらいさん)に連れていきました。そこには霊芝(れいし)でできた宮殿や、銅色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしていました。私は海神に再拝して、何を献上すれば不死の薬が得られるか尋ねると『令名の男子もしくは振女(=善女)と百工(=職人)をもってすれば得られるであろう』とのことでございました」。これを聞いた始皇帝は大いに喜び、若い男女三千人に穀物の種を持たせ、職人と共に徐福に連れていかせた。徐福は平原・広沢の地を得てそこに留まり、二度と戻ってくることはなかった。(この始皇帝の所業によって)民衆の悲痛は極まり、反乱を起こそうとするものが十家のうち六家に及んだ。
これらの話から見えてくるのは、怪しげな方士徐福にたぶらかされ、我を忘れて愚行に走る「悪の大王」始皇帝の姿です。しかし、彼の行為は本当に、常軌を逸するようなものだったのでしょうか。ひとつめの「巨魚射殺譚」から検証していきましょう。
「巨魚」とは何だったのか
始皇帝は12年の在世期間中に5回も全国を巡行しており、「巨魚射殺譚」はこの5回目の巡行の際のエピソードです。一回の巡行には半年ほどかかったとみられるのですが、帝国の屋台骨を組み上げる政務で一日さえも惜しいはずなのに、始皇帝はなぜ巡行を繰り返したのでしょうか。
この問いについては、「始皇帝が秦一国の王ではなく、中国全土を治める皇帝であることを天下万民に知らしめるため」という答えが今日でも一般的です。この説がまったくの誤りではないことはたしかですが、同時にこれがすべてだとも思えません。というのも、巡行の旅程には明らかな偏りが見られ、5回のうち3回までもが山東半島を通過しているのです。
このことについて『史記』には、山東半島が方士たちの蠢動(しゅんどう)する地であることから、彼らや彼らの高唱する神仙説や不死の薬が始皇帝を引き寄せたかのように記されていますが、この記述もまた十全であるとは限りません。私が注目したいのは、①山東半島が首都咸陽の東に位置すること、そして、②始皇帝がそこを春に巡っていたということです。
「四書五経」の五経の一つに数えられる『書経』には、帝舜(古代の伝説上の聖天子)が春に東方へ巡狩し、それに伴って山岳神の祭祀を行ったことが記されています。帝舜は伝説上の人物なのでこれがそのまま古代の天子のならわしだったとはいえませんが、同時に完全な虚構というわけでもないでしょう。なぜなら古代の中国において、人びとは居住地の東で春の季節祭を挙行していたようなのです。では、その春の季節祭とはどのようなものだったのでしょうか。
『管子』禁蔵篇には「挙春祭、塞久禱」、すなわち「春祭を挙行して、延命を祈願した」という一句があります。この一句は中国の冬を知っているとよく理解できます。
中国の冬はかなり寒く、北京のあたりだと日中は-5℃から-10℃、夜は更に冷え込みます。もちろん気候は変動するので現代と同じではないでしょうが、古代の人びとも冬の間は屋内に閉じこもって過ごしていたであろうことは想像に難くありません。そんなかれらにとって、草木が芽吹き、凍っていた川がまた流れはじめる春は、生命の甦りを体験するような季節だったことでしょう。だからこそ、そこで祭りを催し、自らの命が永らえるように祈願した。「居住地の東」というのは、もしかすると、太陽崇拝と関係しているのかもしれません。そして、私たちにとってもう一つ重要なことは、先述した「挙春祭、塞久禱」の後に「以魚為牲」と続くこと、すなわち、その春祭の供物が魚であったということです。
これでようやく「巨魚射殺譚」を読み解く道具立てが揃いました。始皇帝が山東半島を巡行したのは、徐福の口車に乗せられたからでも、不死の薬に魅せられたからでもなく、古来の風習に従って春の祭祀を執り行い、延命を祈願するためだった。その道中で射殺した巨魚は、断じて「悪神」などではなく、その祭祀に用いる大切な供物だった、と考えることができるのです。
「穀物の種」と「職人」が意味するもの
それでは冒頭に挙げたもう一つのエピソード、「不死の薬」の代償として若い男女三千人を海神に差し出したという話はどうでしょうか。ふつうに考えると、この哀れな男女は海神への「いけにえ」だということになりそうですが、もしそうなら、始皇帝がかれらに穀物の種を持たせたことと、職人を同行させたことがいかにも不自然です。この点を加味して考えると、この話は後に、
伝え云う、秦始皇は方士徐福を遣り、童男女数千人を将い(=率い)、海に入り、蓬莱(ほうらい)の神仙を求めんとすれども得ず。徐福は誅を畏れ、敢えて還らず。遂に此の洲に止まり、世々相承け、数萬家有り。(『後漢書』東夷伝)
として展開されるように、徐福の一団を若い男女(=人)、穀物、職人(=技術)を伴った一種の植民団とみなす伝承だったのではないでしょうか。ちなみに後の日本では、この徐福が目指した蓬莱とは日本のことであり、自分たちの祖先は徐福である、という伝承が生まれました。今でも、徐福が上陸したと伝えられる場所が日本各地にあります。
以上、『史記』における始皇帝の行為が、「不死の薬」を媒介に、負のフィルターを通して描かれてきたことを見てきました。司馬談・司馬遷の親子によって『史記』が編まれたのは前漢の時代なので、前王朝の始皇帝が「悪者」になるのはある意味当然のことだったのでしょう。とはいえ、「始皇帝が実は善人だった」などと言うつもりはまったくありません。古代の王や皇帝は平気で人を殺し、街や村を破壊するので、民衆にしてみれば恐怖の対象だったことに変わりはないでしょう。古代の君主の善悪とは、そもそも、現代の私たちの価値観で推し量れるようなものではないのかもしれません。
不死を探求し続けた始皇帝は、皮肉にも巨魚を「射殺」した直後、沙丘(現在の河北省邢台市広宗県)の地にて歿しました。当時の中国では、死後にはこの世と鏡写しの世界が広がっていると考えられていたため、始皇帝は自らの墓に宮殿を造らせ、死後も中国を統治しようとしていたようです――墓に副葬されていた「兵馬俑」は、皇帝を守護する近衛兵であるという解釈が一般的です――。始皇帝が死後の世界でどのような政治を行っているのかは知る由もありませんが、少なくとも、不死を追い求める必要だけはなくなったことでしょう。