先祖から代々受け継いできた田畑をまもって生きる農耕民。「日本人」と聞いてまず思い浮かぶのは、きっと、そんなイメージではないでしょうか。この「プロトタイプ」とでもいうべき日本人像をつくりあげたのは、民俗学の創始者である柳田国男(1875年~1962年)です。東京帝國大学で農政学を学び、農商務省の官僚となった柳田は、「日本人とは何か」という問いを考えていくうちに、文献史料だけではなく、全国各地の習慣や伝説といった文字にならないものへの関心を深めていきます。近現代に至るまで、文字の読み書きができるのは為政者や権力者をはじめとした一部のエリートに限られていたため、文献史料に当たるだけでは日本人がどんな暮らしをしてきたかを知ることはできないと考えたのです。
調査を始めた頃は一般的な農民だけではなく、山で暮らす人々や被差別民の暮らし等も事細かに記録していった柳田ですが、晩年にはそれらの研究成果を「例外」として自ら切り捨て、先祖伝来の土地で稲作をする定住民こそが日本人の「原型」であるという結論に達したのでした。
柳田に大きな影響をうけながら、その言説に捉われず、独自の民俗学を構築した人物のひとりに宮本常一(1907年~1981年)がいます。「歩く見る聞く」を研究のモットーとした宮本はその言葉通り日本中を自らの足で歩きまわり、各地の民間伝承や老人たちの話を克明に記録していきます。極道をしたむくいで盲目となり、今では乞食に身をやつして橋の下で生きている馬喰が若い頃からの数々の女性遍歴を語る「土佐源氏」や、「山の暮らしでは損をすることが多い。旅で世間を知れば村の暮らしにも役に立つだろう」と、旅先で知り合った易者と二人で日本中を歩きまわる「世間師」といった話は、一冊の本にまとめられ、『忘れられた日本人』という題を付して上梓されました。
宮本が「忘れられた」という言葉に込めたものは何だったのでしょうか。柳田は祖先を崇拝する稲作定住民という均質な共同体の中に「日本人」を見出しました。それに対して宮本は、そういう一般的な「日本人」からはみ出してしまう人々、こぼれ落ちてしまう暮らしにこそ目を向け、ひとつひとつ掬い取ろうとしたように思います。そしてそれは、晩年の柳田が自らの日本人像をつくっていく過程で切り捨てていった「例外」に他なりません。
戦時中、宮本の自宅があった大阪府堺が空襲に見舞われ、調査ノートをはじめとした資料や書物のほとんどが焼失してしまったことがありました。燃えさかる炎の中から唯一、宮本が必死の思いで持ち出したもの。それは、初期の柳田が山の暮らしや民間伝承を聞き書きによって記録した『遠野物語』だったそうです。柳田の創始した民俗学が、文献史料を主に取り扱う歴史学に対抗し、文字にならない習慣や民間伝承を調査することで歴史の陰に隠れた人々にスポットを当てるものだとするならば、宮本常一こそがその正統な継承者と言えるのではないでしょうか。