アルゼンチンの日系社会との出会い
2002年の春、アルゼンチンでなんとなくテレビを観ていたとき、聴き覚えのある歌が流れてきました。それは、沖縄について歌った楽曲の定番のひとつとして当時の日本では広く知られたTHE BOOMの「島唄」でした。しかし、歌っているのはアルゼンチンで活躍するマルチタレントのアルフレッド・カセーロで、日本語で歌われてはいましたが、沖縄の楽器である三線や沖縄のうた特有のコーラスも入っており、ただの「カバー」ではない本格的な空気をまとっているのが印象的でした。
日本に帰ってきてアルゼンチンで「島唄」(現地での曲名は”SHIMA UTA -canción de la isla”)が流行っていることをあらためて知り情報を探すと、現地で観た映像の謎が解けました。アルゼンチンの”SHIMA UTA”には沖縄にルーツを持つ日系二世の若者たちが関わっていたのです。カセーロの”SHIMA UTA”にコーラスで参加していたのは大城クラウディアさんで、三線で参加していたのは新垣フリオさんでした。二人は沖縄からアルゼンチンに移民した父母・祖父母を持ち、小さなころから沖縄の民謡や音楽に親しんできたことを知りました。
クラウディアとフリオは”SHIMA UTA”ヒットの同年、2002年の日韓共催サッカー・ワールドカップで、カセーロと共に来日しました。当時大学生だった私は、縁あって彼らの滞在のお手伝いをすることになりました。二人を通して初めてアルゼンチンの沖縄移民社会に触れ、関心を持ち、後に研究するようになりました。
なぜ沖縄出身の移民が多いのか
そもそも日本から海外への移民は1868年に始まり、当初はハワイやアメリカへの移民がほとんどでした。しかし、日露戦争にみられた好戦的な日本への警戒やアメリカへの移民増加による労働力過剰等の問題から1908年2月に「日米紳士協定」によってアメリカへの新規の移民が制限されると、南米への移民が増加するようになります。南米では1899年からペルーへの移民が始まっていましたが、その後急増するブラジル移民の第一回目は1908年4月、781名を乗せた「笠戸丸」の神戸港出港から始まりました。乗船者のうち約半数は沖縄出身でした。
笠戸丸に限らず、沖縄から移民になる人々が多かったことにはいくつかの理由があります。まず、土地に関する制度の変化が挙げられるでしょう。明治時代の後半になると沖縄では土地整理事業が行われ、農民が配当地の所有権を得られるようになりました。しかし土地から自由になる一方で、それまでは現物で納めていた租税が貨幣に変わり、納税に苦しめられるようになります。その結果、沖縄の人々は現金収入を求めて県外や海外へ行くようになったのです。
次に、活発な募集活動が挙げられます。移民会社が力を入れたこともありますが、海外に移住する者が増え、成功者が現れるようになると、狭い沖縄を出て広い土地での「一攫千金」や「錦衣帰郷」を目指してさらに多くの人が移民に夢を託すようになりました。また、人気の移住先であった北米で、急増した日本人への警戒から入国者に制限が設けられたことから、次なる行き先として南米に注目が集まっていたという背景もあります。
移民社会における集団の形成
そうしてブラジルに辿り着いた移民たちは、「聞いて極楽 見て地獄」の現実に直面します。「金のなる木」と言われたコーヒーの木ですが、日本からの移民が割り当てられたコーヒー農園は不作の場所や収穫時期の過ぎている場所が多かったため十分な収入を得ることができず、食べて行くのも難しい状況でした。そこで彼らは、移住してきた際に船を降りたブラジルの港へ移動し港湾労働に従事したり、内陸での鉄道工事に従事するようになります。ブラジルのコーヒー園から逃げ出した人々や契約が満了した人々がブラジル国内で新たな就労先を探しただけでなく、仕事と収入を求めてアルゼンチンへも転住するようになりました。
当初は港湾労働や工場での労働が主だった就労先は、「三大職業」となるティントレリア(洗濯業)、花卉[かき]栽培(=花作り)、蔬菜[そさい]栽培(=野菜作り)へと移行していきました。このうちティントレリアは当初手洗いで資本がいらなかったことや、言葉が十分には話せなくても成立したため、、移民たちが仕事を通じて現地の人々の信頼を得ることのできる稀少な職業でした。
花卉栽培と蔬菜栽培は、首都ブエノスアイレスから少し離れた近郊で行われました。アルゼンチンでは日本人による集団移住は行われなかったため、先に移住した人が家族や同郷の人を呼び寄せるのが一般的でした。そして、成員が相互に支え合う集団が形成されました。やがて独立する者が現れ始めると、その資金調達においても移民たちの相互扶助は大きな役割を果たしました。当初は信頼があるとは言えなかった移民たちに対しては金融機関からの金銭の貸与がされなかったことから、インフォーマルな金融機関として「模合[もあい]」や「頼母子講[たのもしこう]」がその機能を担いました。今では親睦の要素の強い模合ですが、当時はこれによって人々が独立するための資金を得たり、新たな機械を導入したりといったことが可能になりました。
なお、ティントレリアなどの仕事を通して得られた「日本人」としての信頼のほか、花卉栽培に関しても日本からの移民による試行錯誤が実を結び、頻繁に花を贈り合うアルゼンチンの文化を支えてきたという歴史があります。
アルゼンチンの沖縄移民社会
就労先を模索する移民開拓時代が終わり、1920年代から30年代を通して、在亜(「亜」はアルゼンチンの漢字表記である「亜爾然丁」による)邦人社会は全体の規模を拡大していきました。1928年時点で3,466名だったアルゼンチンの日本人は、1938年時点で5,904名になっています。移民は移り住んだ先で様々な理由から集団を形成し、ときに組織化することで移民社会内外の問題に向き合いました。さまざまな団体がありましたが、職業による団体(同業者団体)は慣れない仕事や商売をする上で重要でしたし、出身地域による団体(県としてのまとまりよりも先に市町村字の同郷者団体が存在しました)も故郷から離れて暮らす人々にとって心強いものでした。休日には運動会やピクニックをするなど、余暇も共有されました。また、趣味を通してつながる三線や踊りの団体もありました。ただし三線は、「他府県人の前では弾けなかった」という沖縄からの移民の証言も残っています。
沖縄移民に対する蔑視や差別化は、移民政策にも影響を与えました。ブラジルでは沖縄移民のコーヒー農園における定着率の低さが問題となり、日本政府は沖縄出身者のブラジル渡航を二度にわたって禁止しています。事態を重く見たブラジルの沖縄移民の中心人物らは県人組織を作り、不利益を被らないよう申し合わせ事項を共有しました。それは、子どもを背中におぶらないこと、裸足にならないこと、出産のときに飲んだり歌ったりして大騒ぎするのをやめること、藁を敷いてあぐらをかくのをやめること、等々、14の事項に及びました。
ブラジルの日本人移民社会における沖縄出身者の割合が1割程度だったのに対し、アルゼンチンの日本人移民社会では7~8割と高かったこともあり、アルゼンチンではそこまでの差別は無かったと言われます。沖縄出身者を排除したら、「日本人」としてのまとまりを成立させることが難しかったのでしょう。とは言え、アルゼンチン人から日本人かどうかを問われた場面で他府県出身者が「自分は日本人だけど、この人は違う」と沖縄出身者を指さして言ったという証言もあり、差別が存在しなかったと言い切ることはできないと思います。
戦前のアルゼンチンの日本人社会は、ブラジルのような集団での移住・入植とは異なり、日本からの「呼び寄せ」でコミュニティーを拡大しました。同時に、移民たちは将来日本へ帰る時に備え、子供を日本の親戚に送り日本で教育を受けさせるということが珍しくありませんでした。しかし第二次世界大戦が始まると状況が一変します。日本との間で人の往来ができなくなったのです。沖縄では熾烈な地上戦が展開され、アルゼンチンからは親族の安否も分かりませんでした。
連合国側にあったアルゼンチンにおいて枢軸国の一員である日本人は「敵性外国人」でした。ただ、アメリカにみられたような強制収容所は存在せず、多少の行動制限はあるものの、相対的に「穏やかに」生活することができたと言われています。戦後になると、南米ではアルゼンチンを皮切りに一時的に日本に戻っていた者の呼び戻しが始まりまるとともに、敗戦国となった日本への救済・救援活動も始まりました。物資に窮する「祖国」に衣服や脱脂粉乳、缶詰、油、薬品等が送られました。また、沖縄移民社会では沖縄に向けて集中的な支援を行う「沖縄救済会」も作られ、地上戦によって灰燼に帰した故郷の復興支援に力を入れました。
戦後の混乱期には、ブラジルの日本人社会では日本が戦争に勝ったと信じる「勝ち組」と、日本の敗戦を受け入れる「負け組」との間で死者を出す紛争が起こりました。移民社会にとって強いインパクトと禍根を残す出来事でしたが、アルゼンチンではこうした事件は見られなかったという点もブラジルと異なっています。理由はいくつか考えられますが、情報を正確に伝える新聞が複数存在し、単に日本語で書かれているだけではなく沖縄出身者に向けて情報を冷静に伝えることを目的とした『らぷらた報知』という新聞が創刊された影響は大きいです。また、在亜邦人の多くは、ブラジルのような集団入植地ではなく、都市部に暮らしていました。地域社会との接点が多く、客観的な情報に触れられる環境であったことも、戦後の混乱期を大きな騒動なく過ごせた要因だといえるでしょう。
米軍占領下の沖縄では、日本本土と沖縄を切り離すことを目的に、沖縄の文化・芸能が奨励されました。それと並行するように、アルゼンチンの沖縄移民社会においても、沖縄の芸能が救済活動の場面において「公」に披露される機会が急増します。故郷の文化・芸能を披露する演芸会は、戦後の日本への支援活動を行う募金集めの場になるとともに、戦火にのまれた故郷から遠く離れたところで暮らす移民たちを慰めるものにもなりました。この活動を通してアルゼンチンでは「沖縄音楽舞踊協会」が設立され、三線や踊りを披露する演芸会は毎回盛況を呈しました。
アルゼンチンでは戦後、1951年に「在亜沖縄県人連合会」という沖縄出身者による組織が設立されています。これは、戦後の救済活動に携わった団体も含め複数の既存団体をまとめる意味合いをもった組織である同時に、長らく切望された「県人会」の設立でもあり、現在も在亜沖縄移民社会の中心として様々な役割を担っています。
「よりどころ」を考える
故郷を離れた人々の生活や仕事を支えたものは何であったのでしょうか。アルゼンチンの沖縄移民社会を通して浮かぶのは、まず「同郷」のつながりが挙げられるでしょう。市町村や字といった、ごく小さな単位での人々のつながりは、後に「沖縄」を出自とする団体=県人会を設立せしめ、その根幹には出身地が同じであるがゆえに共有されると考えられる文化、歴史、経験があります。「強固な繋がり」は、困難な状況を前にしてこそますますその強さを発揮するという側面もあるでしょう。また、先ほど触れたように、三線や踊りをめぐって共有される意識や感情は彼らを物心両面で支えました。出身地を同じくしているという一点のみで人々が抱えるものが丸ごとすべて共有されるとは言えませんが、異なりながらも重なり合っている部分があるからこそ機能していると言えます。
しかし、彼らが異国の地で生きて行く上で、同郷者との繋がりや他国の沖縄移民とのネットワーク、出身地との結びつきといった、「故郷」に関する物事だけが支えだったのか、それだけが彼らを支え得たのかと考えた時、必ずしもそうではないように感じます。ブラジルの日本人移民について研究してきた細川周平氏は、「『移民はふるさとを懐かしがる』という結論では、紋切り型を強化することにしかならない」と述べる一方、「情のありようを掘り下げる仕事それ自体が無意味というわけではない」とも書いています。「移民」と彼らの物語に対する固定化されたなイメージを可能な限り取り除きながらも、それでもなお生活や仕事を通して立ち現れる彼らの姿を捉えることは、容易ではありませんが、故郷から離れて生きる人々について考える際、大切なことではないかと考えます。
これは在亜沖縄移民社会にも在亜日本人社会にも、さらには移民にも限らないことであるとも言えますが、人は誰しも自らを支える「何か」によって生きているのではないでしょうか。その「何か」を「よりどころ」と措定すると、「よりどころ」はここまで述べてきたような特定の場所や人である場合もあるでしょうし、そうではない、何か言語化されないようなものであるかもしれません。
人は一人で生きています。もちろん多くの人々との関係の中で、あるいは制度の中で守られてもいますし、「一人で生きている」と言い切るのは難しいのかもしれません。それはつまり一人で生きていくことはとても難しいということでもありますが、それでもなお私たちは死ぬ以外、生きていくほかない。アルゼンチンの沖縄移民の人々の歴史を読み直し、共に時間を過ごさせてもらうことを通して、一人一人がなんらかの「よりどころ」とともに生きている姿が浮かび上がります。それは確固たるものであるように見えることもありますが、日々の生活において自らを支える「よりどころ」を探す過程こそが生きることそのものであるようにも感じられます。
構成:辻信行