客家(ハッカ)は漢民族の一支流であり、独自の文化と言語をもつ集団です。もともと「客」という言葉には、広東語で「よそ者」「一時的な滞在者」といったネガティブで侮蔑的な語感がありました。20世紀前半、客家は「東洋のユダヤ人」と称されたこともあり、世界を流浪した、という意味で「ロマ(ジプシー) 」とも共通点があります。しかし客家という言葉は、差別的な意味合いの強かった時代からアイデンティティーの確立につながる言葉へ、そして現在では強力なプライドさえも感じる言葉になりました。

 広東人や福建人のように、出身地が明確なアイデンティーにはならず、また、客家語圏も他の方言との混在地域があるために、客家を定義することには困難が伴います。それでも万人が認める客家の条件があります。①言語学的に正真正銘の客家語圏とされている広東省梅県の出身者 ②梅県を含めほぼ異論なく客家語圏と認められる地域にルーツを持ち、自ら客家であると自認している という2点です。

 広東省梅県は客家語の「標準語」の地とされています。しかし実際には中国南部の客家語圏と言われる地域には様々なサブ客家方言のグループがあり、お互いの客家語が通じないこともあるのです。また、客家ではないけれど客家語が話せる客家語圏への ニューカマーも存在します。世界五大陸に分布する客家ですが、定義そのものがあいまいであるために、明確な人口統計は把握できません。これはユダヤ人の人口を把握するのが難しいことと相似しています。

 東アジアの他の民族同様、客家も族譜(家系図)を重んじます。族譜とは一族の系譜を記したもので、古代の殷(商) まで遡ってそのルーツを記した族譜も存在します。ただそもそも殷の時代に「客」の概念があったはずもありません。 族譜のような系譜に信憑性の疑いがあることは世界共通ですが、近世以降の族譜はある程度正確に史実を反映しています。ただし日本の家系図と異なり、生まれた女性、嫁いできた女性の名前が記されていません。女性は男子を生んだ場合のみ、説明として記されるケースはあります。

客家の歴史

 歴史学者の羅香林は、客家の起源について「中原起源説」を唱えました。中原とは中国北部の黄河流域一帯を指す名称で、中国文化発祥の地とされています。羅香林は、客家はここにルーツを持つ正当な漢民族だと主張しました。その一方、「土着起源説」は、中国で最も客家人口の多い江西省を含めた南方に起源を求めます。いずれの説も史実と虚構がない交ぜになっており、論争は決着していません。

 羅香林以前に客家を世に知らしめたのは西洋人のキリスト教(主にプロテスタント) 宣教師でした。彼らは19世紀から20世紀初頭にかけて、布教のために東南アジアおよび中国へやってきました。そして客家語の存在に気付き、本国に報告したのです。

 最初に英語の文献で客家を紹介したのは、ドイツ出身の宣教師、カール・ギュツラフ(Karl Friedrich August Gutzlaff 1803-1851)でした。来日経験が無かったにもかかわらず香港で初めての日本語訳聖書を著したことでも知られています。客家の「発見者」としてより、むしろこちらの方が有名かもしれません。彼は語学の天才と言われており、他の中国南部方言と客家語の微妙な差異にも気付くことができたのです。ギュツラフと英米人宣教師の交流を通して、英語文献により客家の存在は広く欧米社会に知られるようになりました。

 20世紀に入ると、羅香林『客家研究導論』(1933年)が、宣教師の報告を引用しつつ、客家≒漢民族以外の少数民族≒未開民族という誤った見方に異議を唱えました。それまで少数民族と混同され、大多数の中国人から差別されていた客家を「正当な漢民族」と主張したのは当時としては画期的なことだったのです。また、日本の外務省が1933年に刊行した『広東客家の研究』は、客家研究の先駆的な文献ですが、日中戦争を遂行するにあたり、華南社会の理解を目指して作成された報告書であり、あくまで戦争目的、および華南占領後の政策を考える上での資料であったと位置付けられます。

 中国大陸で客家研究が盛んになるのは、1978年の改革開放以後のことです。主に文化人類学の観点から客家語圏の民間信仰、文化振興などの研究が堰(せき)を切ったように発表され始めました。それまで東南アジア、台湾、北米で開催されていた世界的な客家親睦大会である「世界客家大会」が、中国大陸で開催されるようになったことも地域振興の刺激となりました。

 また、台湾では1980年末の「客家語を返せ」運動に端を発し、これまで客家と名乗ってこなかった人々が声を上げ始め、台湾の中で客家が広く認識されるようになりました。中国大陸と距離をとる民進党政権時代には、中国との協調を志向する国民党時代への反動もあり、非漢族である台湾先住民の文化を中心に「多言語多文化社会」が打ち出され、この流れで客家文化も注目されるようになったのです。

客家の文化

 「円形土楼」はいまや客家文化のアイコンともいえる建築物ですが、客家語圏=土楼点在地というわけではありません。そもそも土楼とは、数百人の同族集団が一か所に住む巨大な集合住宅で、主に福建省西部に点在します。土楼では、すべての部屋の大きさに大差がなくこの点が共産主義と矛盾しないこともあり、土楼は客家のアイコンとなったのです。

土楼の内部

 客家の代表的な料理としては、豆腐の中にひき肉を詰めた醸豆腐(ニャンドウフ)と、芥子菜(カラシナ)の漬物で豚肉を煮込んだ梅菜扣肉(メイツァイコウロウ)の二つが挙げられます。逆に言うと、この二つを除いて「これが客家料理」と定義づけることは極めて困難です。というのも客家には他の漢民族と同じく、食のタブーがないのです。ユダヤ教のコーシャのように、厳格な食事規定が存在すると、「○○は豚肉を使うからユダヤ料理ではない」と消去法で定義することができますが、客家に食のタブーがない以上、「○○を使うのは客家料理ではない」という消去法による定義も出来ません。

 環太平洋地域の客家を研究する河合洋尚氏によると、南太平洋に浮かぶフランス領・ハイチの客家にとって、醸豆腐と梅菜扣肉はあまりポピュラーな料理ではありません。この地で代表的な客家料理である「マア・ティニト」は、味は広東客家料理のように塩辛いものの、もともと中国由来ではないマカロニをはじめ、紅豆、豚肉、野菜を混ぜて作られます。このことから、客家料理がポリネシア料理やフランス料理と混合し、現地化している様が見てとれます。   (河合洋尚「タヒチ客家見聞録」『客家―歴史・文化・イメージ』現代書館、2019年、210-211頁)

 客家が信仰する宗教は、仏教、道教、キリスト教、民間信仰など実に多様です。個人差と地域差があるのは当然ですが、客家の守護神として「三山国王」という広東の民間信仰があります。宗教民俗学者の窪徳忠氏によると、三山国王とは客家語圏である広東省掲陽県の巾山、明山、独山の3つの山の神の総称で、同地に反乱が起こった際、皇帝の親征に加勢して政府軍を勝利に導いた、という伝説が少なくとも2件語られています。古くは唐代、そして南宋を舞台にした伝説で、後者はやや詳しく語られており、おおむね以下のような話です。

 時の皇帝が反乱軍鎮圧の為に親征したものの、将兵が全滅、皇帝は一人で逃げたものの河に追い詰められて万事休すと思われた時、対岸に翻る軍旗を見て一心に助けを呼んだところ、対岸から一頭の馬がやってきて、皇帝はその馬に乗って虎口を脱した。しかし都に戻って調べるとその付近には軍隊はおろか人すら住んでいなかった、という結末になっています(窪徳忠『道教の神々』平河出版社、1986年、300頁)。これらはあくまで「伝説」ですが、こうして皇帝を救ったという三山国王の伝説は客家=憂国、愛国の士という言説を生んだ下地となっている可能性はあります。

客家の可能性

 文化人類学の進歩によって、改革開放以後、中国大陸では自分が客家であると知って「目覚めた人」が増えつつあります。江西省南部の贛(かん)州一体の住民がその典型です。台湾では観光振興と客家語圏の地域振興が連動し、自身が客家であることを高らかに宣言する機運が高まっています。これは客家に対する偏見が著しく希薄になったことが大きいでしょう。

 清代の宗教家・革命家で太平天国を打ち立てた洪秀全(1814~1864)は、若き日に数回科挙に落第しましたが、洪秀全自身は自分が客家だったから試験に落とされたと思って憤り、万人が平等である社会を創ろうとして太平天国の乱を起こしたのだ、という俗説があります。 また、戦前の日本による東南アジア華僑調査書に、家族の誰も自分が客家だと公言していないのに、息子の縁談が客家だという理由で破談にされた、どうして客家と分かったのか未だに分からない、という客家男性 華僑のエピソードが載っていました。しかしいま、客家におけるこのようなエピソードは過去のものとなったのです。

 かつて胡錦濤(1942~)が在任中中国のあるべき姿を「和階社会」(調和の取れた社会)と銘打ったため、何百人という一族が一緒に住む客家の土楼は、「和階社会」のアイコンになりました。しかし大都市への人口集中、農村の過疎化は世界的な問題で、中国の客家語圏も例外ではありません。当然ながら土楼に住む人々は減少する一方で、若い世代が都会へ移住することは避けられない現実となりました。とは言え客家の知名度が上がったことで、今まであまり注目されなかった客家居住区が観光都市となり、土楼は観光名所と位置付けられ、地域経済の活性化に貢献した一面もあるのです。

 現在は一帯一路との関係で、メディアでは中央アジアやヨーロッパに近年移住した華僑が注目されている一方、既に漢民族の中での偏見がほぼ存在しなくなった現在では、これまでのように客家を「居住先の少数集団である華僑華人、その華僑華人の中でも差別されつつ、それにも負けずに成功した華僑の鑑」とする言説はあまり注目されません。ただこれから注目される可能性があるのは、南アフリカの客家です。客家に限らずアフリカ大陸の中で最も早く華僑の移住と定住が進んだのが南アフリカであり、同国での客家移住に関して研究が進めば、アフリカ華僑研究の一端として再び注目されるかもしれません。というのもヨハネスブルグの客家移住に関して僅かながら記録はあるのですが、いつ頃客家が南アフリカに移住したのか、彼(女)らは台湾・香港の出身者なのか、南アフリカの歴史からして、イギリスやオランダからの二次移住だったのか、はまだ(私が知る限り)明らかになっていないからです。なお、旧イギリス領だったモーリシャスも、知る人ぞ知る客家の移住先として挙げられます。

 20世紀にファッションの中心がパリとみなされたように、文化にはその「中心地」がありました。しかし今日、「中心」を作るのも名乗るのも困難で、こうした考え方自体がやや時代遅れになりました 。コロナ禍も手伝い 、サイバー空間で集まることが中心になったいま、「その場に行く(行った経験、滞在経験 がある)」ということは、もはやステータスでなくなったのです。その意味において、「広東」「福建」など故郷が限定されない「客家」のあり方 には、現代を生きる我々にとって、(概念として) 自分のルーツを意識し伝統を守ることと、移住先(物理的にも精神的にも新しい環境)に柔軟に溶け込み、貢献することを両立させるヒントが色々と詰まっているのではないでしょうか。


構成:辻信行