ナショナリズムは一般的に国民国家(=ネイションステイト)と関わりの深い思想であると言えます。社会学者アーネスト・ゲルナー(1925-95)はナショナリズムを、文化的・民族的な人間集団である「ネイション」と、政治的な統治範囲である「ステイト」を一致させようとする思想や運動の総称と定義しています。国民国家という国のあり方が当然である現代の感覚とは異なりますが、このネイションとステイトの一致は決して自明でも、必然的なことでもありません。一つの国家が統治する領土に言葉や文化の異なるさまざまな民族が暮らすのは、近代以前にはむしろありふれた状況でした。江戸幕府がステイト=国家としての統治機構を有していたのは確かですが、当時の日本列島に住む人びとに同じネイション=民族だという意識はまだ希薄だったでしょう。
国民国家という思想および統治機構は18世紀末、革命後のフランスに端を発したと考えられています。といっても、国民国家の成立は一朝一夕に遂げられたわけではありません。革命当時のパリとその周辺地域では、文化や風習の違いはもちろん、言葉すら十分には通じない状況だったようです。そのためフランス政府は各地方に学校をつくり、パリを中心に使われていた言語を「フランス語」として全土に広め、共通の歴史や文化が存在する、と鼓吹(こすい)しました。それによって、これまでにはなかった「国民」という意識を涵養していったのです――これと同じことが明治以降の日本でも行われたのは周知の事実です――。
自由・平等・博愛をスローガンとするフランス革命によって生まれたことから分かるように、ナショナリズムには身分制を打破したという側面があります。時代が進むにつれて、国民国家の中の人びとは同じ国民として共通の権利と義務を有し、互いに助け合うことが求められるようになりました。税金による富の再分配はその代表的なものだと言えるでしょう。一方で、国民の均質化には多様性を消失させる側面があることも見逃せません。先ほど少し触れた通り、明治以降の日本では琉球やアイヌといった少数民族の文化や風習、さらには各地の方言までもが国家によって弾圧され、標準化された日本語や日本文化が押し付けられてきました。こうした言語や文化の絶滅への危惧は現在、日本だけでなく、世界的な問題となっています。
また、戦争が必要悪のように見なされ、国民の動員が正当化されたこともナショナリズムの負の側面です。江戸時代の武士と農民の割合からも分かる通り、近代以前の戦争に参加するのは一部の人だけでした――ヨーロッパでは戦争の度に傭兵を雇うことも一般的だったようです――。ところが国民国家では、国民が祖国のために命を懸けて戦うのは当然のことだとされ、国家は国民や資源を戦争に総動員することが可能となりました。つまり、国民国家は物心両面において、強大な戦力を擁することになるのです。すると、まわりの国々が侵略されないためには、自らも国民国家になる他ありません。こうしてナショナリズムは19世紀以降のヨーロッパを席巻し、第一次大戦でそのピークを迎えることになります。
この大戦におけるドイツ、ロシア、オスマントルコ、オーストリア・ハンガリーといった各帝国の敗北は、国際社会において国民国家という国のあり方を決定的なものとしました。――同時に、人類の進歩の成果であるはずの国民国家が国を挙げての総力戦を引き起こし、これまで経験したことのない数の戦死者を生み出したことは人々に大きなショックを与え、ヨーロッパの知識人に思想的な危機意識を生んだということがたびたび指摘されます――。では、世界中で国民国家が確立されていったこの時代のナショナリズムと比べて、現代のナショナリズムにはどのような特徴があるのでしょうか。
現代のナショナリズム
現代のナショナリズムの特徴として、他民族やマイノリティを排除しようとする傾向が強いという点があげられます。従来のナショナリズムにもそうした側面はあったとはいえ、領土内の他民族を国民として同化・包摂していくことを重視していたことを考えると、対照的です。「敵」をつくる排除と「われわれ」をつくる包摂はナショナリズムの両義性と言えますが、現代のナショナリズムにおいて後者はほとんど見られません。在日外国人の方に「国へ帰れ!」と叫ぶ自称「愛国者」はいても、「日本語を勉強して日本人になれ!」と言う「愛国者」が今の日本にどれだけいるでしょうか。
現代のナショナリズムには「敵」の脅威を強調する一方で、「われわれ」の実態的な国民統合、たとえば社会的排除の阻止や生活全般に及ぶ文化的同質性の追求には消極的という「奇妙さ」があります。それは、人びとの同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向するナショナリズムだと言えるでしょう。ではなぜ、このような動きが出てきたのでしょうか。その根底にはマジョリティのインセキュリティ感覚(=自分たちの生活や文化が危機に陥るのではないかという不安)があると考えられます。これまでは得られて当たり前だった生活の安定性や将来の見通しが失われたため、その原因を、在日外国人をはじめとするマイノリティに求めて攻撃するという構図です。
マジョリティのインセキュリティ感覚の要因として、主に以下の二つが考えられます。
一つめは他民族の同化政策に対する異議申し立てへの反発です。先述の通り、明治以降の日本は琉球やアイヌといった日本列島の他民族、さらには朝鮮半島をはじめとする東アジアの人びとまでをも「日本人」として同化し、その言語や文化を弾圧してきました。そのことに対する抗議が60年代の学生運動や社会運動を契機として湧き起こると、それへのカウンターとしてかれらへの反発が生まれたと考えられます。今まで一体だと思っていた「われわれ」が一つではなかったことが明らかになった。一体だったはずの「われわれ」が分裂することへの危機感。それは大日本帝国がもたらした負の遺産だと言えるでしょう。
新自由主義の台頭
インセキュリティ感覚の二つめの要因は1980年代に台頭してきた新自由主義です。市場における自由な競争を原理とする新自由主義は国民の間に格差をもたらし、また、それを正当化する自己責任論を生み出しました。これまで国家が担っていた公共事業は次つぎに民営化され、国民の生活の責任を国が負うという社会保障の観念さえもが自明のものではなくなっていったのです。
新自由主義はまた、戦後の経済成長によって培われた日本の自信を喪失させました。かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた日本型の家族的経営は、利益のためにはリストラも辞さないアメリカ型に太刀打ちできなくなり、多くの日本企業が経営方針の転換を迫られます。その結果、年功序列や終身雇用は見直され、非正規雇用の労働者の割合がどんどん増えていきました。こうして「家族」の役割を果たせなくなった企業から人びとが投げ出され、バラバラの個人として、グローバル化した社会を生きていかなければならなくなったのです。
新自由主義、さらにはその基盤を成している資本主義には普遍性があります。その普遍性は「交換可能性」と言い換えることができるでしょう。企業が個人に求めるのは「何ができて、どれだけ稼げるか」ということだけであり、もしもその個人より能力のある労働者がいればいつでも「交換」できるのが新自由主義の理想です。これは家族や共同体の成員が特殊性を持つ(=交換不可能である)ことと対照的です。しかし今や「私」が属すべき共同体はどこにもない。こうした人びとの一部が唯一残された「幻想の共同体」=国民国家への帰属意識を高めることで、自らのアイデンティティを確保しようとする。これこそが現代のナショナリズムの基本構造ではないでしょうか。
社会学者の大澤真幸氏は、現代の「愛国者」たちは国を愛しているのではなく、国に愛されることを求め、見捨てられることを恐れている人びとではないかと述べています。それは裏を返せば、自分が国民国家の一員であることに確信が持てないということでしょう。だからこそ、国民の内側に境界線を引き、マイノリティやその権利を擁護する人びとを「敵」に仕立て上げることで、自分が「本当の日本人」であることをアピールする。「敵」を攻撃している間だけは、生活の不安も、格差のことも忘れ、国民の同質性を感じることができるのかもしれません。
現代のナショナリズムがこうしたマジョリティのインセキュリティ感覚から養分を得ているのだとしたら、その対策として必要なのは「ケア」の視点ではないかと思います。第一に、現代のナショナリズムによって傷つけられた人びとへのケア、第二に日々の生活や将来への不安を抱えている人へのケア、そして第三に現代のナショナリズムと一体化してしまった人へのケアです。この三つめには関しては「差別発言やヘイト行為を繰り返す者にケアの必要などない」という意見があるかもしれません。しかし私は、ヘイト行為に対しては刑事罰を含めた法的措置を講じるべきだと考える一方、かれらをそうした行為に駆り立てているものを見つめ、何らかの形でその不安を解消していく動きが必要ではないかと思います。
国民が同じ国民の中に「敵」をつくり出し、それを攻撃することで燃え上がる現代のナショナリズム。その「奇妙さ」の正体は、一人ひとりの「かけがえのなさ」を保証する共同体を破壊し、個人を交換可能とみなすことによって成り立つ現代社会そのものの「奇妙さ」なのかもしれません。