困ったときはお互いさまだといいます。人に親切にしておけば、いつか自分が困ったときにはその人が助けてくれると。では、相手の素性がよくわからず、助けたとしても、もう二度と会わないかもしれないとしたら? それでも私たちは助けあうでしょうか。

 私は2016年10月からの半年間香港に滞在し、この都市で暮らすタンザニア人コミュニティの参与観察を行いました。彼らの多くは「チョンキンマンション」という安宿を定宿とし、その脇の小道にたむろして一日中おしゃべりをしたり、スマホをいじったりしています。といっても、遊んでいるわけではありません。彼らの一人ひとりは起業家であり、ビジネスマンです。彼らの多くは香港をはじめとする中国市場で物品――衣料品や雑貨、中古のスマホ、中古車やその部品など――を仕入れてタンザニアの市場で売却するビジネスをしており、毎月数万ドルの利益を上げている者もいます。かと思えば、毎日の食事代にも事欠く者、ドラッグディーラーや詐欺師に身をやつす者、それがバレて収監され、無一文で出所した者と、その状況はさまざまです。

香港のタンザニア人たち

 一人ひとりに話を聞くと、必ずと言っていいほど出てくるのが「誰も信用するな」という言葉です。香港のタンザニア人たちは「みなそれぞれのビジネスをしている」「他人には他人の人生がある」と言って、他人の過去を詮索したり、生き方に口を出したりするようなことはあまりありません。そのくせ、偶然出会った得体のしれない若者に食事をごちそうしたり、自分の部屋に――場合によっては何カ月も――泊まらせたりしているのです。矛盾しているように見えるこうした言動の裏には、どのような論理があるのでしょうか。

タンザニア香港組合

 香港で暮らすタンザニア人は「タンザニア香港組合」という組合を結成しています。商業的旅行者、亡命者や不法滞在者、セックスワーカーらの集合体である彼らは何かあったときにも正規のルートを頼ることが難しいため、自分たちの手による助けあいのネットワークが必要なのです。しかし、香港とタンザニアを行き来し、たまにしか組合の活動に参加しない者も、商売にしくじり組合の活動費や寄付を出せない人々もいます。そうした者が窮地に陥った際にも、組合は同じように支援の手を差し伸べます。彼らは組合活動への貢献度や、特定の困難・窮地を招いた原因――危険性の高い犯罪行為に手を染めるなど――をほとんど問わず、他者が陥った状況(結果)だけに応答し、可能な範囲で支援しているように見えます。

 組合活動のこうした特徴は、コミュニティの流動性や不確定性と深く関わっています。前述の通り、さまざまな状況に置かれている個々のメンバーは価値観も金銭感覚も異なる上、昨日までいた人間が何も言わずに姿を消したり、はじめましての挨拶の後二度と会わないということも珍しくありません。こうした状況では、「困ったときはお互いさま」が成り立たないのは明らかです。それはいいとしても、なぜ、組合活動に貢献しない者や、犯罪行為に関わった者まで助ける必要があるのでしょうか。それは「自業自得」であり「自己責任」ではないのでしょうか。

 香港のタンザニア人と暮らしていて感じるのは、彼らが個々の実践や行為の帰結を他者の人物評価――「努力が足りない」「考えが甘い」「やさしさが足りない」など――に結びつけて語ることをほとんどしないということです。もっと言えば、あらゆる行為の責任を帰す一貫した自己など存在しない、と認識しているように見えるのです。それには、彼らが生きてきた環境が大きく影響していると考えられます。

 経済面においても政治面においても不安定なタンザニアでは、将来の予測を立てることが難しく、私たちの常識では考えられない不条理な事態に遭遇することが多々あります。小さいときからそうした世界を生きていると、他人のした事や置かれている状況について、簡単にその人のせいだとは言えなくなるのではないでしょうか。リスクを予測し、将来に備えて最大限の準備をしていても、どうにもないことがある。そのことを、彼らは身をもって経験してきているのです。

ツイッター型コミュニティ

 行為の責任を統一した人格=自己に帰さないという態度は、彼らのビジネスにおいても見ることができます。彼らはSNSを使って自分が仕入れた商品の買い手を探したり、新しいビジネスの共同出資者を募ったりするのですが、仮にそこで不誠実な行為――約束を破ったり、壊れた製品を送ってきたりなど――があったとしても、それが原因で取引の場から追放されるということはまずありません。めぐり合わせが悪くて窮地に陥ることは誰にでもある。そうなると、人はつい悪いことも考えてしまうものだ。置かれている状況が好転すれば、今度はちゃんとするだろう、と語るのです。

 そんな彼らにとって重要なのは、どれだけタイプの違う仲間を持っているかということです。私が香港でいちばんお世話になった「チョンキンマンションのボス」ことカラマの携帯には、政府高官や大企業の社長、詐欺師に泥棒、元囚人まで、あらゆる人間が登録されています。彼らのコミュニティはいわばツイッター型です。もしも自分のフォロワーの属性や価値観がぜんぶ同じだったら、ツイッター型のコミュニケーションは機能しません。自分のツイートに対して全員が反応するか、誰も反応しないかのどちらかになるからです。多様性があるからこそ、ほとんどの人にスルーされたアイデアに反応したり、窮地に陥ったときに助けてくれる人が見つかるのです。

カラマと筆者

 私自身、そのことを実感した出来事がありました。私にはサイード(仮名)というタンザニアの友人がいます。彼とはそれほど親しいわけではないのですが、会うとよくコーヒーをごちそうしていました――タンザニアではコーヒーをおごり合う習慣があります――。タンザニアで調査をしていたあるとき、私はバッグに入れていたはずの携帯がなくなっていることに気づきました。どうやらスリに遭ってしまったようです。

 仲間たちのたまり場に行き、しょげ返ってそのことを話すと、みんなが口々に「サイードに連絡しろ」と言います。言われるがまま電話すると、「OK、わかった。サヤカの携帯が来たら連絡する」。なんとサイードは、盗品携帯のディーラーだったのです。ほどなくして「サヤカの携帯が持ち込まれた」との連絡があり、仲間といっしょに向かうと、犯人は近所のおばさんでした――おわびにいろいろな物をもらいました――。スリに遭ったとわかったとき、警察に言ったところで恐らく動いてはくれなかったでしょう。サイードという特殊な「職業」の友人と、コーヒーの「貸し」があったからこそ、携帯は無事に戻ってきたのです。

 タンザニアの友人たちは、この社会で生きていくためには、他人への「貸し」をすぐには取り立てないことだと言います。たとえば誰かに1万円を貸して翌月に取り立てたら、貸し借りはそれでチャラになります。しかし私が取り立てなければ(あるいは貸したことを忘れていたら)、その相手が大会社の社長になり、1万円が100万円になって返ってくるかもしれません。もちろん詐欺師になっているかもしれませんが、そういう知り合いがいるのも悪くはないものです。誰かに親切にしてあげた見返りは、必要となるとき――たとえば携帯を盗られるとか――が来るまで放置しておいた方がいい。取り立てていない貸しは、彼らにとって人生の保険なのです。

予測できない世界を生きる

 タンザニアの人びとの生き方は、「未来は予測できない」ということを前提にしています。何が起きるかわからないからこそ、何が起きてもなんとかなるように、いろいろな人とつながっておく。目の前に困っている者がいれば――その原因にかかわらず――ムリのない範囲で助け、貸しをつくっておく。そうすることで他の人も「あいつはいいやつだ」と言ってフォロワーになってくれるかもしれない。そこには国家も保険会社もありませんが、ある種のセーフティネットがたしかに機能しているのです。

 近代社会はこの世界の偶然性や不確実性を排除する方向で進化してきました。天気予報や地震予知、AIを用いた信用スコアなどが前提としているのは、「未来は予測できる」という世界観です。こうした世界観が共有された社会では、タンザニア人のコミュニティのような助けあいが起きることはないでしょう。未来が予測できるのであれば、あなたがいま困窮しているのはその予測をあなたが怠ったからであり、つまりは自己責任だからです。近年の生活保護受給者たたきなどは、まさにこの理屈ではないでしょうか。

 しかし、「未来は予測できる」という世界観が幻想だったことを、私たちは新型コロナウィルスによって思い知らされました。この世界は相変わらず、偶然性と不確実性に満ちている。その事実は私たちを不安にさせますが、一方で、偶然性や不確実性を認めるからこそ、人は助けあうことができるのではないでしょうか。

 ちなみに、香港で仕入れた雑貨をタンザニアで売っていたある友人は、中国の工場が閉鎖されて商品の流通がストップすると、早々に店を売却し、そのお金で養鶏場のビジネスを拡大しました。食べ物はみんな必要だから需要が減らないだろう、と言って。新型コロナウィルスも、彼らにとっては、よくある不条理の一つに過ぎないのかもしれません。


※本稿は『チョンキンマンションのボスは知っている』(春秋社)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答を基に再構成したものです。