私たちは日々さまざまな交換をしています。物と物、物とお金、あるいはお金とお金。少し注意してみると、そこには二つの様式があることに気がつきます。たとえばバレンタインデーにチョコレートをもらって、1カ月後、お返しのクッキーを渡したとしましょう。私たちは、このやりとりをコンビニでお金を払ってチョコレートを買う行為とは別のものだと認識しています――前者を「贈与交換」、後者を「商品交換」といいます――。では、この二つは一体何が違うのでしょうか。
贈与交換と商品交換の違いの一つに、「等価かどうか」という点があります。あなたは友人に、ちょっといいレストランで食事をご馳走しました。するとその友人が後日、自宅に招いて手料理をふるまってくれました。この交換の「収支」はどのように考えればいいでしょうか。金銭的な面でいえば、あなたの負担の方が大きいかもしれません。しかし、友人が料理にかけた手間や下にも置かないもてなしは、お金には換算することのできないものです。その結果あなたの心には、これでトントンだとは言い切れない、負債感のようなものが残ることになります。この「割り切れなさ」が相手との関係を継続する原動力になります。
商品交換では普通、このようなことはありません。仕事帰りに居酒屋で飲んで、代金を払う。そこで負債感は残りません。すっきりと後腐れのない取引です。私はメニューを見てほしいものを注文し、お店はその分のお金を請求する。そこでは(形式上は)等価での交換が成立し、取引はその都度完了します。私とお店とのあいだには、贈与交換のような「割り切れなさ」は残りません。だから、別にそのお店にまた行かなければならないといった義理は生まれないのです。
まとめると、贈与交換があいまいで常に不均衡な状態が生み出されるのに対し、商品交換は明快で対等な関係でなされると言えます。
ただし、その二つの対比は、あくまで「理念的なもの」に過ぎません。お店でお金を払うとき、それがどういう意味で「等価」なのか、じつは自明ではありません。お店は商売として利益を得ているわけですし、客も料理やお酒を楽しむという意味でお得感があるからお金を払うわけです。なので、たとえば「生ビール=500円」という値段は、その商品と金額が「等価」であるというよりも、互いに「等価交換」としてやりとりを完結させるための仮の設定、つまりはフィクションなのです。だからこそ、通っているうちに馴染みになれば、「おまけ」をしてもらったり、常連さんとしてそのお店に通いつづけたりといった、贈与交換的な「関係」が生じることもある。現実の商品交換と贈与交換は連続線上にあって、さまざまなグラデーションがあるのです。
一般には市場の商品交換のほうが通常の物のやりとりで、贈与交換は例外的なやりとりだと思われています。でも人類学は、むしろ人間社会には贈与交換こそがベースにあって、そこに商品交換というあらたな交換の形式が生み出されたという視点から「贈与」の重要性に注目してきました。
クラ交換
二つの交換の違いは「人格を帯びているかどうか」という視点からも考えることができます。フランスの人類学者マルセル・モース(1872-1950)は『贈与論』の中で、贈与には「与える義務」、「受け取る義務」に加えて「返礼の義務」があるとし、それを「物(タオンガ)に憑く霊」の存在によって説明しています。モースによると、他者から物を受け取ることは同時にその人の霊的な本質、魂を受け取ることに他なりません。それは手放された後も、物を通じて相手に影響を及ぼします。受け取った物を第三者に譲り渡すか、相手に同等かそれ以上のお返しをしない限り、その支配力は維持されるのです。
霊とか魂とか言われてもピンと来ないという方は、交際相手がある日、見たことのない指輪をしてきた場面を想像してみてください。はじめはセンスのいい指輪だ、とても似合っていると好意的に見ていたとしても、それが実は前の彼氏(彼女)にもらったものだとわかったら、とても穏やかではいられないでしょう。その指輪にこびりついた元カレ(元カノ)の人格が――そしてその指輪をしてくるという恋人の行為の意味するものが――あなたの心をかき乱すのです。人からもらったお土産を不要でもすぐには棄てづらいのも同様です。それをくれた人の人格が物に付帯しているからだと考えると理解できるのではないでしょうか。
以上の特性からわかる通り、贈与交換には人と人をつなぐはたらきがあります。人類は昔から贈与によって共同体を形成し、集団同士のつながりを維持してきました。その一例として、ブロニスラフ・マリノフスキー(1884-1942)が『西太平洋の遠洋航海者』で詳細に記述した「クラ交換」をご紹介しましょう。
「クラ」はトロブリアンド諸島を含むマッシム諸島で行われてきた儀礼的な交換の様式です。島に住む男たちは、他の島々に贈物を交換し合うパートナーをもっています。そのパートナーは島の位置関係によって、つねに赤い貝の首飾り(ソウラヴァ)を贈る相手と、白い貝の腕輪(ムワリ)を贈る相手にわかれます。首飾りをもらった相手には腕輪を渡し、もらった首飾りは腕輪をくれた相手に渡す。パートナーから由緒ある品を受け取ることはたいへんな名誉ですが、ずっと持っていることは許されず、それを別のパートナーに渡すのもまた名誉なことだとされます。こうして海をこえて次つぎに贈物が交換されていくので、首飾りは島々を時計回りに、腕輪は反時計回りに動いていきます。
クラ交換の贈物を載せたカヌーは、遭難の危機にさらされることもあります。一方で、迎える側が執り行う歓待の儀礼には莫大な出費が伴います。にもかかわらず、そうしてやりとりされた首飾りや腕輪は、祝祭や儀礼的な舞踊といった重要な行事以外ではほとんど使われません。経済的には双方にとってマイナスしかないこのやりとりは、むしろそれゆえに、パートナーとの終生にわたる信頼と友情を構築し、強化します。こうして、島をこえ、親族集団をこえた社会的な関係のネットワークが築かれているのです。先ほど紹介したモースは、この贈与交換が秩序ある関係性を生み出してきた点に着目し、「諸民族は戦争、孤立、停滞を協同関係、贈与、交易に変換させることができた」と評しています。
贈与の負の側面
人と人のつながりを生み出す贈与交換。しかしそれは常に美しく、心温まる行為というわけではありません。北アメリカ太平洋岸の先住民社会で見られる「ポトラッチ」という儀礼では、ライバルの首長に対して返礼できないほど多くの贈物をしたり、目の前で貴重な銅貨などの財産を破壊してみせたりして、相手に恥をかかせようとします。それに対抗するには、より盛大な返礼の祝祭を催してさらなる贈与と破壊の行為にでるか、敗北を認めて屈するしかありません。贈与は時に従属関係を生み出し、権力の源泉ともなるのです。
贈与にはまた、相手がそれを欲しているかどうかわからないという面があります。バレンタインデーのチョコレートは、相手がチョコレートを好きかどうかとは無関係に渡されます。必要を満たすために贈られるわけではありません。家にみかんが一箱あるのに、親戚からまた一箱届いたといった経験は、誰にでも身に覚えがあるのではないでしょうか。
商品交換ではそんなことは起こりません。お金さえあれば、欲しい物を、欲しい時に、欲しい分だけ手に入れることができます。しかもそのやりとりは、先述した通り、何のしがらみもないフラットな関係で行われます。命をかけて出かける義務も、相手への負い目を感じることもありません。
商品交換は贈与交換よりもはるかに対等で合理的なやりとりなのです。しかし、それでもなお私たちは、すべてを商品交換にすることにはためらいを覚えます。たとえば、自分のつくった食事に家族からお金をもらうことは、私たちの根本にある「何か」を否定してしまうように感じるのです。それはなぜなのでしょうか。
「未開」と「近代」
私がフィールドワークをしているエチオピアは、世界でも有数のコーヒーの生産国です。人びとはコーヒーを貴重な現金獲得源としてだけでなく、日々の大切な嗜好品としても楽しんでいます。
コーヒーを飲むとき、エチオピアの村では必ず隣近所の人を招きます。自分たちの家だけで飲むことはまずありません。もしもそんなことをしたら周りから「あの家は自分たちだけでコーヒーを飲んでいるよ」と陰口をたたかれてしまいます。コーヒーは独り占めするものではなく、みんなと共有されるべきアイテムなのです。
あるいは、村のだれかが病気になると、村中の人がお見舞いにやってきます。病人は朝から晩までその見舞客の相手をしなければなりません。病気なのにしんどいだろうと思うのですが、本人は意外とまんざらでもない様子で病状を説明したりしています――もちろん本当に苦しいときは、家族が相手をしますが――。エチオピアの村では病もまた、個人のものではないのです。それは言い換えるなら、他者の欲望や苦しみといったものが常に感知され、掬い取られる社会だといえるでしょう。
商品交換が優勢な日本に暮らす私たちは、一見、このような価値観を失ってしまったかのように思えます。しかしそうではありません。寄付を募る小学生の声をイヤホンでやり過ごすとき、街角で雑誌を売るホームレスの人の前を足早に通り過ぎるとき、私たちの心にもまた、エチオピアの村人と同じ感情が小さな産声をあげています。それを「うしろめたさ」と呼ぶこともできるでしょう。
未開社会と近代社会のあいだには根本的な差異があるかのようなイメージがあります。でも、必ずしもそうとは言えません。そのことをブルーノ・ラトゥール(1947-)は「私たちはいまだかつて近代であったことはない」という言葉で表しました。クラ交換を奇異の眼で見る私たちが、一方で、LINEでの無意味なやりとりに多くの時間を費やしています。「あいつはなんで既読スルーするんだ」と怒る人が、「コーヒーに呼ばなかった」と陰口をたたく村人のことをはたして笑えるでしょうか。
私たちに他者とのつながりを感じさせるのは、具体的な物や言葉のやりとりです。そしてそれは、おそらく人類が誕生した時から、贈与という形式で行われてきたのです。商品交換では、物をやりとりする個人を切り離された対等な存在として浮かび上がらせます。でも、それは最初に述べたように、ある種の「フィクション」です。そこで見失われているのは、私という存在がつねに他者によって支えられ、そのつながりのなかで生かされているという事実です。個人が能力を高めて、お金を稼ぎ、財を蓄積することに価値がおかれる市場経済の世界では、人間が他者なしには生きられず、喜びを得ることもできない存在であることが覆い隠されます。
人はなぜ贈与するのか? その問いは「人間とはどんな存在なのか?」という問題と直結しています。人類学にとって「贈与」がいまなお重要な研究テーマである理由もそこにあります。マリノフスキーは、『西太平洋の遠洋航海者』のなかで、人びとがクラ交換を続けている理由について、このように述べています。
「重要な点は、彼らにとって、所有するとは与えることだという点である」。
この言葉は、現代を生きる私たちの心にも響くはずです。「贈与」は、自分が手にした所有物を誰かに与えているわけではない。何かを与えるべき相手がいてはじめて「自分」という存在の意味が確かめられる。そう言えるのかもしれません。
※本稿は『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、『文化人類学の思考法』(世界思想社)、及び『基本の30冊 文化人類学』(人文書院)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答を再構成したものです。