人間は笑ういきものですが、笑いという現象はなぜ存在するのかと考えてみると、いろいろと不思議なことに気づきます。世界中、どんな社会にも笑いが普遍的に存在しているのは、いったいなぜでしょう? 笑いやユーモアのセンスは文化ごとに違っても、どの文化にも笑いはあるのです。
また、ほかの動物は笑わないのに、人間だけが笑う、あるいは笑っているようにみえる理由は? 空腹や恐怖、性衝動など、生命の維持に直結する根源的な感情は他の動物にも見られます。しかし、笑いは人間に特有な現象です。笑いとは人間の本性に根付いているものといえるでしょう。だからこそ、笑いやユーモアを研究することを通じて、人間をより深く理解することが可能かもしれません。
ユーモアに関して、私がとくに興味をもつ主要な問題は次の三つです。
1)ユーモアはどういう時に生じるのか。(ユーモアの発生条件)
2)何のためにユーモアは存在するのか。(ユーモアの存在理由)
3)人間はなぜユーモアを愉快と感じるのか。(ユーモアの感情的側面)
これらの問いについて、哲学者は様々な回答を示唆してきました。なかでも、有名なユーモア三大理論として、「不一致説」、「安堵説」、「優越説」というものがあります。
不一致説とは、常識が裏切られたときなど、思い込んでいた事柄が予想しなかった形で姿を現して、認識と現実がズレを生んだときにユーモアが生まれる、という説です。安堵説とは、何かが起きそうだという緊張感が高まった状況で、その出来事が実際には危険なことではなく、ばかばかしいことだったとわかったとき、ホッとして一気に笑いに転じる、という説。優越説とは、何かに対して予期しなかった優越感が突如得られたときユーモアが生じるという説。たとえば、漫才のボケとツッコミは、ツッコミによって観客の優越感を際立たせる好例といえるかもしれません。誰かのドジを笑うのも優越説で説明できます。しかしながら、これら三つの説のどれも単独では説明しきれない笑いも存在するのが悩ましいところです。
現代の多くの哲学者は次のようにも考えています。ユーモアはしばしば、普段われわれが無意識のうちに信頼しきっているヒューリスティクス(それに基づいて判断していればおおよそ正しく、素早い行動を可能にする方法や規則)がときに失敗に終わり、奇妙なエラーの可能性などを発見するといった状況で生じるものである、と。
簡単な例として次のようなものがあります。必死になってメガネを探していたところ、それは自分の頭にのっていることに気づいた。俺ってバカ…。こういうとき、われわれはユーモアの原型のようなものを体験しますが、ここで、「探しているメガネはどこか見えるところにあるはずだ」というのは単なる思い込みにすぎない、というある種の発見に出会います。
このような「発見」がユーモアの愉快さに密接に関係しているのではないか、と私は考えています。発見というのは、今まで気づかなかったことに気づくということ。そして、それはある種の優越感をもたらします。この発見の優越感というのは、特定の対象との比較による優越感や、誰かを見下す優越感であるとは限りません。何か新しいことを発見したという優越感はむしろ、一般に共有可能な愉快さであるように思えます。
人間にとってこの「発見の優越感」は、実は非常に大切なもの。それがなければ、人類はおそらくこれほど進歩できなかったかもしれません。人間はよりよく生きたいという思いを持つ生きもので、そのために「発見」を求め、それが喜びとなる。こうした発見の優越感こそがユーモアの愉快さの正体なのだと私は考えています。
そう考えてみると、笑いにはとてもクリエイティブな側面があります。「これまでの思い込みは、こうして裏切られるよ!」と笑いは人間に楽しい方法で知らせています。「探していたメガネは自分の頭にのっていた」と気づいた人は、続いて「よし、今度はまず自分の頭に手を当ててみよう」と思うのではないでしょうか。笑いによって、より有用なヒューリスティクス、新しい適切な行動を思いつくというわけです。人間は定期的に失敗をして、よりよい方法を生み出す必要がありますが、その役割をユーモアが担っているのではないか、というわけです。こうして、先の2)ユーモアの存在理由に対するひとつの答えとして、ユーモアは人間が進化するためにあるのではないか、ということができるのです。
ところで、ロボットは笑うことができるでしょうか? この問いは、3)ユーモアがなぜ人間にとって愉快なのか、という問いにも繋がります。結論からいうと、ロボットを笑わせること、あるいは笑いに特徴的な振る舞いをさせることは可能でしょう。ロボットに「笑いの発生条件は、既成概念を裏切るような不規則なできごとが起きたとき」というプログラムを組み込むことができたなら、そのロボットは「いま、ユーモアが生じている」と判断することはできるからです。
さらに、笑っているような表情をつくることさえ可能かもしれません。しかし、そのときロボットは本当にユーモアを楽しめているのでしょうか。笑うロボットがユーモアに愉快さを感じているか?そう考えると、そこは疑問です。
ロボットにとって生存が意味を持たない限り、おそらくユーモアを理解して楽しむことはできないでしょう。なぜならば、ロボットには「失敗を生かし、生存のためのより最適な方法を探ろう」というモチベーションも、そうした創造性を発揮する必要もないように思われるからです。人間にはつねに生存が関わっていますから、よりよい生き方を見つけようとするのは当然。しかし、ロボットをプログラミングに沿って反応するだけの機械だとすれば、生存に関わる感情は不必要で、そもそも持ち得ないように思われます。
不一致説や優越説の説明では、ユーモアを生みだしたり、そこに愉快さを感じたりするためには高度な認識が必要になるでしょう。だから、概念把握ができる理性的な動物、つまり人間しかユーモアを理解し楽しむことはできないのではないか、と。しかし、ロボットでも概念把握はできるかもしれない。もしかすると、人間よりもうまく処理することだってできるかもしれない。
他方、生存が重要な意味をなさないロボットにとって、ユーモアが愉快に感じられることはない。人間にとってユーモアの存在理由が自らの生存や進化のためのものであるとするならば、それは非常に動物的な現象でもあります。それゆえ、ユーモアという現象は、優秀なロボットのように完全に理性的でもなければ、野生の動物のように完全に感情だけで理解することもできない。動物とロボットの中間にいる、そういう人間だからこそ起きる現象であるように思われます。
もしも、人間社会からユーモアがなくなる日が来るとしたら? つねに進化を目指し、固定観念を疑うというユーモアの機能を踏まえると、笑いが生じないような状況とは、もうそれ以上発展しないような完璧な社会や、もはや進歩の必要がないような状況ではないでしょうか。生存にかかわるよりよいヒューリスティクスを見つける必要もなく、これ以上の発見がないような状況ということですから。笑いは人間の不完全さを示すと同時に、次の一歩を踏み出すために必要なものなのです。
構成:濱野ちひろ