チェコ文学に〈日本もの〉が多い理由

 チェコといえば、ドヴォルザークやスメタナのクラシック音楽、トルンカやミレルのアニメーション、また1964年の東京オリンピックのチャースラフスカーなどを思い浮かべる方が多いでしょうが、最近では何といってもWBC(World Baseball Classic)で注目を集めました。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、野球のチェコ代表は、たった一週間の日本滞在でこれまでにないほどチェコの知名度を上げました。スポーツマンシップばかりでなく、チームメンバーの本業が医師や電気技師などで、アマチュアから成り立っていることも、注目された要因の一つです。

 今回は私の研究する文学の視点から、チェコと日本の交流を紐解いてみたいと思います。チェコに限らず、19世紀後半のヨーロッパでは日本趣味、すなわちジャポニズムが流行しました。この潮流は日本の美術品や工芸品にとどまらず、文学にも見受けられます。フランスの作家P・ロティ『お菊さん』(1887年)、アメリカの女性作家S・マッコール『神々の息吹』(1905年)、イギリスの小説家E・P・オッペンハイム『輝かしい王子』(1910年)など、日本や日本人が登場する外国作家による作品は数えきれないほどあります。

 そんななかでも、日本に対する関心が特に強かった国の一つがチェコです。チェコでは、1880年代から海外で出版された日本の旅行記が翻訳刊行されるようになり、1890年代からは実際に日本を訪れたチェコ人旅行家の旅行記も出版されるようになりました。さらに、日本を舞台にした〈日本もの〉が、19世紀末から20世紀前半にかけてチェコで数多く刊行されました。初期の作品でもっともよく知られているのが、J・ゼイエル(1841-1901)『ゴンパチとコムラサキ』(1884)です。

 この時代、チェコの文学者たちのなかには、題材をチェコ国内に求める者と、海外に求める者がいましたが、ゼイエルは後者を代表する作家で、フランス、スペイン、スカンジナヴィアやロシア、東洋では中国と日本に題材を求めました。当時、東洋関連の外国書籍の多くは、今もあるナープルステク博物館の図書室に収蔵され、語学力に堪能であったゼイエルは、頻繁にここに通いました。

 『ゴンパチとコムラサキ』という作品は、イギリスの元外交官アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード(1837-1916)が1871年に刊行した『昔の日本の物語』を主要な情報源として、歌舞伎で有名な平井権八と小紫の悲哀物語と、佐倉惣五郎の義民伝説という、本来は関係のない二つの題材を独自に溶かし合わせて紡ぎ出された物語です。ゼイエルは、世界各国の文化や文学について情報を熱心に集めながら作品を書きました。夢見ていた日本旅行は遂に叶いませんでしたが、チェコの日本通の第一号といってもいいでしょう。ゼイエルは他にも、小野小町を登場させた「暖かい夜の歌」や日本の神話から題材を採った「イザナギの心痛」など、四、五篇の〈日本もの〉を執筆しています。

 19世紀末のチェコではほかの〈日本もの〉もありましたが、『ゴンパチとコムラサキ』は絶大な人気を博しました。本作はのちにドイツ語やスロベニア語、ロシア語にも翻訳され、ポーランドでは1920年にゼイエルの作品に触発された『侍の恋』が書かれています。20世紀前半に、ジョエ・ホロウハ(1881-1957)、ヤン・ハヴラサ(1883-1964)、バルボラ・M・エリアーショヴァー(1874-1957)など、日本を訪れるチェコの旅行家が相次ぎましたが、彼らのほとんどは『ゴンパチとコムラサキ』に登場する権八と小紫が眠る比翼塚(目黒不動尊内)を訪れており、いかにこの作品が人気であったかが伺えます。

ジョエ・ホロウハ

 1906年と1926年に日本を訪れたジョエ・ホロウハは、日本文化全般に造詣が深く、日本美術のコレクターとしても有名です。日本語の翻訳は出ていませんが、チェコ国内では今でもよく知られています。ヤン・ハヴラサは、1912~13年に日本に滞在し、関東関西の名所旧跡ばかりでなく北海道まで足を延ばし、アイヌの文化や生活をチェコの読者に紹介しました。1920年に日本でチェコスロヴァキア公使館が開かれると、日本に詳しいハヴラサは初代公使の候補に考えられていましたが、結局ブラジルに赴任することになりました。

 このハヴラサは、1年にもおよぶ日本滞在を記述した旅行記や、日本を舞台にした短編や長編小説を数多く発表しています。英語に堪能なハヴラサは自分でその作品を英訳しており、ゼイエルの『ゴンパチとコムラサキ』へのオマージュとして書かれた初期の長編小説『霧のなか』(1918)はさらにクロアチア語にも翻訳されています。彼の作品のなかで日本の浮世絵に着想を得た怪奇小説集『妖怪と奇跡』はとくに面白いです。例えば、巨大な蛸に襲われる人間を描いた『北斎漫画』の絵がイラストとして使われている「蛸の島」という短編は、5年にもおよぶ留学を終えて帰国した研究者が、神経衰弱の療養のため外の世界から切り離された地方の漁村に引きこもり、多くの奇妙な出来事を体験した挙句に巨大な蛸に襲われるという物語です。『妖怪と奇跡』(1934)は江戸時代の美術とチェコの近代作家の創造力が出会ったところで誕生した異彩の作品集なのです。

ヤン・ハヴラサ『妖怪と奇跡』の表紙

 そして、明治末期から昭和初期にかけて4度も来日し、1923年に日本で関東大震災を経験した女性旅行家に、バルボラ・M・エリアーショヴァーがいます。彼女は日本滞在中に、日本の文化や自分の日常生活について、チェコの新聞や雑誌に数多くの記事を寄稿しました。そのなかには、明治天皇の大喪の様子や乃木希典の自決をめぐる記事もあります。また、1923年に横浜で関東大震災に遭ったエリアーショヴァーは命からがら横浜を出て、4~5日かけて東京・青山にあったチェコ公使館まで歩きましたが、この恐ろしい経験を綴った記事や、震災後に撮影された横浜の廃虚の写真も残されています。

着物姿のエリアーショーヴァー

 エリアーショヴァーは日本の文化人とも交流しました。志賀直哉の教え子にあたる女性作家、網野菊(1900-1978)はその一人であり、網野の作品にはエリアーショヴァーをモデルにしたと思われる人物がしばしば登場します。例えば、戦時中に書かれた『若い日』という中編小説は、1920年代初頭の網野菊の実生活に題材をとった作品ですが、そこにエリアーショヴァーを思わせる、東京で一人暮らしをする外国人の女性が登場します。興味深いことに、この外国人の女性の人物像ばかりではなく、主人公が彼女の家を訪れるときの描写も、当時エリアーショヴァーが住んでいた目白に近い高田町大原の家にそっくりです。

エリアーショヴァーの大原高田町の借家にて。右端は友人の女性作家 網野菊

日本を訪ねたチェコスロヴァキア軍団

 チェコのジャポニズム文学を考えるさいには、〈チェコスロヴァキア軍団〉にも注目しなければなりません。チェコスロヴァキア軍団は第一次世界大戦下のロシアで、主にオーストリア=ハンガリー帝国軍の脱走兵や捕虜たちから結成されました。7万人にも及ぶこの義勇団は、東部戦線でドイツやオーストリアと戦い、のちにシベリアまで後退して1918~20年にウラジオストクからチェコに帰国しますが、その際、多くの兵士たちが療養などの理由で日本に一時滞在したのです。

 そのなかの一人、J・ゼメク(1893-1967)は結核の療養で聖路加病院に一時入院していました。ゼメクが帰国後に刊行した『看護師ヤエコ』は、島田八重子という実在の看護師をモデルにして、チェコの兵士と日本の看護師の恋愛を描いています。前述したハヴラサら旅行者の〈日本もの〉の趣向とは異なり、軍人の目に映った日本の姿が描き出されるこれらの〈軍団もの〉は、同時代のチェコの読者を強く刺激し、日本に対する新たな関心を促しました。

ゼメクの著書『ニッポンのこころ』

 こうしてチェコにおいて、〈日本もの〉は19世紀の終わりから1930年代にかけて人気を集めましたが、戦後まもなくこのジャンルは、下降の一途をたどります。テレビやラジオ、新聞雑誌で外国の情報が取り上げられるようになり、日本はもはや文学者に夢想される桃源郷でなくなったのです。1948年に共産主義の強権体制に転じたことも関係があるでしょう。しばしば〈ゲイシャ〉などを描く娯楽的な読み物としてのジャポニズム文学は、共産党が求める社会主義リアリズムの基準を満たしていないものとして排除されたと考えられます。

 このようにジャポニズム文学はフェイドアウトしていきましたが、それと引き換えに登場したのは、日本文学の翻訳です。戦後には、プロレタリア文学の小林多喜二『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』が刊行されました。また、広島・長崎原爆も注目され、蜂谷道彦『ヒロシマ日記』や永井隆『長崎の鐘』といった原爆文学も翻訳されましたが、作品そのものへの注目というより、アメリカ批判という政治的プロパガンダに利用されることが多かったのです。とはいえこれ以降、チェコでは一貫して原爆に対する関心が維持されています。

日本におけるチェコ文学の受容

 ⽇本で最初に注⽬されたチェコの作家は、カレル・チャペック(1890-1938)です。彼の初期の戯曲『ロボット』を訳した宇賀伊津緒訳『⼈造⼈間』(1923年)が、⽇本におけるチェコ⽂学の嚆⽮となりました。昭和初期に翻訳されたJ・ハシェク(1883-1923)の『シュベイク』と I・オルブラフト(1882-1952)の『労働婦⼈アンナ』も注目され、とりわけ後者は、チェコではあまり知られていない作品にも関わらず、日本では女性が階級闘争や社会運動に目覚めるというテーマが珍しかったために、広く読まれることになったのです。

 当時の⽂壇に浸透していたプロレタリア⽂学思潮と、プロレタリア⽂学に対する弾圧(⽇本の検閲制度)が、チェコ文学の受容に影響を与えました。プロレタリア⽂学とは程遠い『ロボット』は階級問題の寓話として認識され、『シュベイク』は、⽀配階級の不正や腐敗を摘発したプロレタリアの⼤衆的読物として認識される傾向があったのです。このように両作品には階級的な〈批判性〉や〈⾰命性〉を求める傾向が見られます。一方、もともと〈⾰命性〉を前⾯に出していた『労働婦⼈アンナ』は、その〈⾰命性〉が伏字により削り落とされる結果となりました。プロレタリア⽂学への弾圧が激化していくなかで、後者のような作品を本来のかたちで世に送り出すことが不可能であったことは想像に難くありません。そこで、前者のような作品に〈⾰命性〉を求めるという傾向が⾃然に生まれたとも考えられます。

 チャペックは今も世界で注目されている作家ですが、ほぼ全作品が翻訳され、しかも『ロボット』のような名作が何度も訳されているという日本での人気は特別なものだと思います。扱われるテーマは多様性に富み、ジャンルもSFや探偵小説、童話まで多岐にわたり、その一つ一つに、今のわたしたちにも強く訴える力があります。例えば、コロナ禍においては、国家権力と感染症という時代を超えた問題を扱ったチャペックの晩年の戯曲『白い病』が新しく読み直されるようになりました。この先再び注目が高まるであろうチャペック作品に、『山椒魚戦争』があるのではないかと思います。ウクライナで戦争がつづくという時代において、侵略戦争と人類滅亡をテーマにしたこの作品は、読者に重要な問いかけをしているように思います。

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※本稿は「〈日本もの〉の系譜:ロティの『お菊さん』からツィマの『シブヤで目覚めてまで』」(『図書新聞』(3498)2021年)、「東洋と西洋の架橋――〈異界〉への扉を開くジャポニズム文学」(『文学+』(2)2020年)、「日本におけるチェコ文学の初期受容―プロレタリア文学運動との関係を中心に」(『ロシア・東欧研究』(49) 2020年)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答を基に再構成したものです。

構成:辻信行