キリスト教は、1549年にスペイン出身のイエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルによって日本に伝えられました。だれもが知っている史実ですが、その裏にあったさまざまな出来事はあまり知られていないかもしれません。キリスト教はどのようにして日本にもたらされ、そして、受け入れられていったのでしょうか。
16世紀前半、宗教改革によって生み出されたプロテスタントの波はヨーロッパのキリスト教界全域に及びつつありました。これに対抗するために、カトリック教会には自ら改革を推進しようとする動きが出てきます。それは、2つの動きに代表されます。ひとつは教義を再確認し、教会の改革をはかる「トリエント公会議」の開催で、もうひとつが世界布教を創設の目的のひとつとする、カトリック修道会「イエズス会」の誕生です。
イエズス会は1534年8月15日、イグナシオ=デ=ロヨラ(1491~1556)やフランシスコ=ザビエル(1506~1552)ら7人の同志がパリで(1)清貧、(2)貞潔、(3)聖地エルサレムへの巡礼、もしそれが叶わなければローマ教皇の命じる場所であれば世界のいかなる地であっても赴くこと、の3つの誓いを行ったことで創設されたことになります。6年後の1540年にはローマ教皇パウルス3世の教皇勅書により修道会として正式に認可され、(3)の誓い通り、カトリック教会の世界布教において中心的役割を果たしていくことになります。
大航海時代
イエズス会の世界布教には「大航海時代」という背景があります。15世紀初頭のセウタ攻略にはじまる大航海時代は、新大陸を発見したスペインと、インド航路を開拓したポルトガルというイベリア半島の2つの国が世界規模の発展を遂げた時代です。この両国の海外進出に裏づけを与えていたのがローマ・カトリック教会でした。イベリア両国が海外に新たに土地を発見するたびにローマ教皇が勅書を発給し、その地域の航海、貿易、布教の独占権、つまりその地域の事実上の、あるいは潜在的領有を承認していったのです。
ポルトガルはアフリカ大陸の西海岸を南下する形で進出していったので、ローマ教皇による承認は、当初、新たに土地が発見されるたびに地図上の緯線を基準にして更新されていました。ところが、1492年にスペインの援助によってコロンブスが新大陸を発見すると、一転して経線による分割承認が必要となってきます。
1493年、ローマ教皇アレキサンデル6世は、アソーレス諸島とヴェルデ岬諸島の西100レグア(1レグア≒5.6㎞)を境界として極から極に地球を分割する線を引き、東側をポルトガル、西側をスペインの「征服に属する地域」と定めます。この地球二分割によってイベリア両国の進むべき方向は明確になりました。イエズス会はポルトガル国王の承認を受けていたので、同国の海外進出に伴って地球を東回りでインド、東南アジア、さらには日本へと布教していくこととなったのです。
インドでの挫折
イエズス会のインド布教は当初、シモン=ロドリゲスとニコラス=ボバディーリャという二人のイエズス会士によって行われる予定でした。しかし、ローマを離れる前にボバディーリャが熱病にかかってしまったので、総長ロヨラは、代わりに自身の秘書をしていたザビエルの派遣を決定します。さらに思いもよらぬことに、リスボンでは一緒に行くはずだったロドリゲスがポルトガル国王の要請によって国内に残留することになり、結局イエズス会からはザビエルだけがインドに赴くこととなりました。
ザビエルのインド布教は、順調に進んだと言えるものではありませんでした。その原因として、急遽決まった派遣だったので、インド布教のビジョンが十分に描けなかったこと、それに加えて、この地域の民族や言語の多様性が挙げられます。使用されている言語が多くなるほど、その地域の布教が困難になるのは想像に難くありません。ザビエルはインドの代表的な言語であるタミール語の公教要理(編注:ローマ教会がキリスト教の教理を簡略に記したもの)を作成していますので、インド布教を長期的計画と捉えていたと推測されますが、その明確な方向性を見出すことはできませんでした。
インドでの布教に行き詰まったザビエルは、マレー半島の港湾都市マラッカでアンジローという日本人と出会います。そこで初めて日本という国を知った彼は、1548年1月20日付、コーチン発のイエズス会員宛書翰に、その印象を次のように記しています。
もしも日本人すべてがアンジローのように知識欲が旺盛であるならば、新しく発見された諸地域のなかで、日本人は最も知識欲の旺盛な民族であると思います。このアンジローは、キリスト教の講義に出席した時に信仰箇条を書きました。彼は、教会にたびたび行き、祈っていました。彼は、私にいろいろ質問しました。彼は知識欲に燃えていますが、それは非常に進歩する印であり、短時間のうちに真理の教えを認めるに至るでしょう。
(河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』。ただし、一部改訳。)
ザビエルは、アンジローと出会ったことで日本に強い関心を抱き、やがて自ら布教に赴くことを決意するに至ります。
キリスト教の神=大日?
1549年8月15日、ザビエルは、司祭コスメ=デ=トーレス、修道士ジョアン=フェルナンデス、そして日本人アンジローと共に鹿児島に上陸しました。鹿児島の人びとは当初、この一行のことを「天竺宗」という仏教の一派だと思っていたようです。これはアンジローがキリスト教の神のことを、大日如来を意味する「大日」と訳したことが原因だと考えられています。威厳に満ちた態度で「大日を拝みなさい」と説くザビエルを見れば、人びとが彼を天竺から来た高僧だと思ったのも無理からぬことです。
これはもちろん布教される側の誤解によるものですから、一般的には布教上の失敗と捉えられていますが、ザビエルが島津貴久をはじめとする各地の領主や、福昌寺という名刹の住持と会うことができたのは、この「仏教の一宗派」という誤解があったからだという捉え方もあります。後にザビエルは、神を大日と訳すことの誤りに気づき、「大日」を放棄して原語の「デウス」を用いるようになります。
日本にキリスト教をもたらすきっかけとなった、ザビエルと日本人アンジローとの出会い。その出会いによって醸成されたザビエルの日本人像は来日後も基本的には変わっていません。彼は日本人を高く評価しており、非常に優れた人びとであると力説しています。ただ、その日本人がその後100年も経たないうちに、自分の伝えたキリスト教を激しく弾圧するとは思わなかったかも知れません。