インドにおける「カースト」とは、結婚、職業、食事などに関して様ざまな規制をもつ排他的な人口集団のことです。そもそも「カースト(caste)」という語はインドにはありませんでした。かつてポルトガルの航海者がインドで目にした社会慣行にたいして与えた「カスタ(casta)」に由来します。その「カスタ」は、ラテン語で「カストゥス(castus)」の「混ざってはならないもの、純血」から派生し、「血筋、人種、種」を意味します。しばしば「カースト制度」と呼ばれますが、カーストは国が定めた制度ではなく、社会的な身分制です。長い年月をかけて根付いたものです。
カーストには、二つの概念が含まれています。「ヴァルナ(varna)」と「ジャーティ(jati)」です。ヴァルナ(色の意)は、日本で知られるピラミッド型の社会階層概念です。浄/不浄の観念によって階層化され、バラモン(祭官・学者階層)を頂点として、クシャトリア(王侯・武士階層)、ヴァイシャ(商人・平民階層)、シュードラ(上位三階層に奉仕する階層)と下るにつれて不浄の度合いが増していきます。この社会理論は紀元前8世紀から7世紀にかけて成立し、紀元後数世紀には、これらの下にさらに不可触民(第五のヴァルナともいわれる)というカテゴリーが加えられて五ヴァルナ制となりました。一般に、日本で知られるカーストはこのヴァルナを指している場合が多いですが、元々ヴァルナはヴェーダ文献や法典によって伝えられたバラモンの教義・理念にすぎず、実体的なものではありませんでした。
一方のジャーティ(生まれの意)は、相互互恵的な横のつながりで、一定の地域社会を基盤とした出生による一時的な社会集団のことです。結婚相手の選択や職業の世襲、物々交換などは各ジャーティ間でおこなわれています。地域単位で機能していたジャーティが中世(8世紀ごろ)から形成されるようになると、次第に五ヴァルナ制の階層理念にある程度対応しながら身分的に位置づけられていきました。
理念としてのヴァルナ制が実体化し、現実のインド社会を規定するようになったのは、植民地支配の際に、古代サンスクリット文献が積極的に参照、利用されるようになった19世紀以降と考えられています。そこでは、植民地政府から現地社会への一方的な影響だけではなく、インド人側もカーストに関連する政策に対して積極的に反応していました。
不可触民(ダリト)、清掃カーストとは?
被差別カーストの不可触民(ダリト)は、インドの人口の16.25%である約1.6億人が該当します。アファーマティブ・アクション(社会的弱者にとって不利な現状を是正するための積極的な改善措置)によって、不可触民を一定の割合で優先的に入学させる大学や、公務員として採用する政策があります。しかし、不可触民の中も多層のカーストに分かれており、デリーでは36のカーストが行政によって指定されています。その中で最下層に位置づけられ、厳しい差別を受けてきたのが、私の研究している清掃カースト(バールミーキ)です。
清掃カーストの起源に関する説明はこれまでも先行研究で試みられてきましたが、実証性にかけ、いまだに解明されていない点が多いです。その来歴を古代の賤民階層チャンダーラや、アーリヤ人によって征服された先住の部族民に求めて、不可触民の起源説と重なることを指摘する研究もあります。また、清掃カーストの出現を近代とする見方もあります。近代以降のイギリス統治下における都市自治体の発展にともなって、屎尿(しにょう)処理を必要とする汲み取り式の乾式便所が増設され、それによって屎尿処理人が形成された可能性を指摘する先行研究もあります。
清掃カーストに限らず、「イギリスがカーストを作った」と主張する研究者もいます。たしかにイギリスの統治時代には、インド人を宗教やカーストで分断し、統治しやすくしようとした一面があります。しかしカーストと呼ばれる慣習、不可触民差別もイギリスの入植前から存在しましたし、イギリスの統治政策にインド人がいつも受け身でいたわけでもありません。そもそも当時、インド人は自分の帰属するカーストや宗教すら曖昧だったのです。
ガーンディーとアンベードカル
1947年、インドは独立します。独立当時のカーストと不可触民政策に大きな影響を与えた思想家・政治家として、M・K・ガーンディー(1869-1948/「ガンジー」という表記が一般的だが、研究者間ではより現地綴りに近い「ガーンディー」が用いられることが多い)とB・R・アンベードカル(1891 -1956)の二人がいます。ガーンディーは、上位カーストであるヴァイシャ出身で、ヒンドゥー教の枠組みのなかで改革を志向しました。カーストそれ自体を否定してはおらず、平等な形でのヴァルナ制(社会階層理論)の実現を主張しました。一方のアンベードカルは、カーストを差別問題として捉え、ヒンドゥー教から脱して新たな価値観や信仰を希求する方向に導きました。実際に彼は晩年、ヒンドゥー教から仏教に改宗したのです。二人の思想的相違の背景には、独立を目前にした政治的な思惑もありました。ガーンディーは、不可触民(ダリト)がヒンドゥー教徒とは別個の集団と認められ、分離する事態となれば、独立が危うくなるという目算があったのです。しかしアンベードカルは、そもそも不可触民はヒンドゥー教徒ではないと捉えていました。
ガーンディーは不可触民をハリジャン(神の子)と名付け、差別撤廃運動を展開しましたが、リーダーはみな不可触民以外なので、不可触民の自立は実現できませんでした。現在のダリト運動はアンベードカルの思想に基づいています。
今日、ダリトの人々の中で、人権侵害や指定カースト留保政策の改正を求める公益訴訟の運動事例が生まれています。政治、行政、警察に対する信頼度が低いインドでは、司法にたいする期待が高いように思います。ダリトの公益訴訟は、おもに弁護士を中心とするエリート層が率いており、今後も増えていくと考えられます。
清掃カーストの中には、清掃以外の仕事に就いている人々もいます。しかし、新自由主義的なモーディー政権下において生活は苦しく、公務員としての清掃職が減らされる傾向にあります。民営化で業務は下請けされ、従来の1/3ぐらいの給料で働かせられることもあります。労働組合の力も以前より弱まっています。
そんな中、ダリト出身の若者たちの動きが注目されています。2016年にダリト出身の大学院生、ローヒト・べームラーが大学内の寮で自殺したことを契機に、若者たちの間で運動が盛り上がりました。自身のカースト出自を親から知らされないまま育ち、なかには欧米の大学へ留学する若者たちも増えているのですが、様ざまなきっかけで出自を知った衝撃からカミングアウトをして、英語で自伝を出版する新たな動きもみられます。FacebookなどSNSの普及は、こうした傾向を後押ししています。
最後に、コラムのタイトルになっている問いにお答えしたいと思います。「カーストはなぜ続いてきたのか」「カーストはなぜなくならないのか」。このような問いの多くは、カーストの差別性、人権擁護の立場から発せられています。たしかに、カーストは個人が生きるうえで「足枷」となる差別や格差がある一方で、職業、結婚、文化信仰、歴史やアイデンティティを共有することで芽生える「絆」のようなものがあります。それらを基盤にして、様ざまな運動が活発に繰り広げられていることがカーストの現代的位相です。このような側面から捉え直してみることで、カーストへの理解が深まり、インド社会を知る手がかりになるのではないでしょうか。
構成:辻信行