――ここまでお話いただいたような現象とインターネットには、どのような関連があると考えられますか。

 ネットが普及し始めるのは90年代ですが、その中に雑誌文化からネット文化へという動きがあり、特定の雑誌の読者たちがネット上でコミュニティーをつくるようになります。もちろん、雑誌の読者層というのもひとつのコミュニティーではあったのですが、それ自体にはあまり能動的な動きはありませんでした。しかしネットが普及していくにつれて、たとえば小林よしのりの読者や、『ガンダム』あるいは『銀河英雄伝説』などのアニメや小説のファンが相互につながり、ネット上の議論を通して、さまざまな思想が形成されていきます。それまではマスメディアの情報を受け取る一方だった人たちが、自分たちで議論するようにより、独自のアジェンダ(=議題・論題)をつくり上げていったわけです。

――よく言われるように、受け手から発信者へとなったわけですね。

 90年代の終わりからゼロ年代にかけて「反リベラル市民」や「歴史修正主義」、「反マスメディア」といったものがネット上でアジェンダ化されていくとともに、そのアジェンダ同士が結合していく。これまでは何の接点もなかった人たちがネットの掲示板を通じて反応し合い、リベラリズムやマスメディアといった共通の敵を設定することで結合していくわけです。

 たとえばサブカルチャーの愛好者と歴史の愛好者だったり、極右の思想を持った人だったりと、趣味・嗜好も考えも異なる人たちが結びついた結果、たとえば嫌韓ヘイトスピーチといったおかしなものが生まれてくる。これは本当に変な話で、排外主義と言うのはニューカマーを拒否するものなのに、ずっと日本にいる人たちに向かって今さら駄目だというのはおかしい。

――本当にそうですよね。

 こうして、90年代からゼロ年代にかけてのネットはアジェンダの形成と相互作用、結びつきの場となりました。こういうアクティブさは、雑誌の時代にはなかったことです。ネット上にはナチス的な民族主義や差別思想など、現実世界ではタブーとされている言説が横行し、それらが結びついておかしな構成体がつくられていく。そういった動きが2010年くらいまで続きます。

――2010年頃に変化が起きたと。

 2010年以降は、掲示板やブログが下火となってSNSの時代になりますよね。そうなると、あまり新しいものは出てこなくなる。新しいアジェンダというより、新しく出てきた人たちによって昔からあるアジェンダが再生産されていく。

 そのときに、あるキーワードやテンプレートが元の文脈から断ち切って使われ、みんながそれに追随するという動きが出てきます。ネット初期にアジェンダの結びつきによってできたおかしなものが、SNSの時代になってキーワード化され、一人歩きするようになる。それこそ「在日特権」だとか「反日」といった言葉が、その根拠がどこにあるかわからないままに使われ、使われることで既成事実化していく。

――そうした言葉によって何かを考えるのではなく、それを使って誰かを攻撃するようになっていったわけですね。

 その通りです。SNS時代の最大の戦犯はまとめサイトです。まとめサイトが2ちゃんねるの書き込みの中から都合のいいものを引っ張ってきてキーワードにまとめ、そのキーワードにリンクを付けてSNSで投げ合う。マスメディアや知識人といった「強者」と、その「強者」が弱者認定した人たちを攻撃するのに便利なキーワードが、どうぞ使ってくださいとばかりにまとめサイトで提供される。それを使ってみんなで盛り上がれればそれでいいんですよ。だからネット上の攻撃は大体3日で終わります。

――そうなんですか?

 私もたくさん攻撃されました。まとめサイトに載ると3日間ものすごく来るんですけど、3日たつとすっかり静かになる。これはつまり、使ってくださいということ。この言葉で攻撃してすっきりしてねって。すっきりすることが目的なので、その背景がどうとか、それが事実かどうかなんてもはや関係ない。使用価値があればいいわけです。そういう攻撃材料をまとめサイトが次から次へと供給し、SNSで消費される。それがこの時代の大きな特徴ですね。

戦略としての反知性

――真実かどうかではなく、使えるかどうかが情報の価値を決めているのであれば、SNSに陰謀論があふれるのもうなずけますね。

 かれらはそれが本当だと思っているのではなく、本当だと思っているふりをしているきらいがあり、それがフェイクの増殖する大きな要因にもなっています。本当かどうかを確かめるのはめんどくさいし、そういうのはそもそも――攻撃対象である――知識階級の仕事なので、そこで勝負をしても勝てない。だから実証なんかしないんだと。知識階級に対抗するためにあえて反知性的な態度をとっているところがあって、恐ろしいことに、それがかれらの「知」なんですよ。

――だとすると、たとえばトランプ元大統領の発言に対して左派系のメディアがいくらファクトチェックをしたところで、支持者にとっては痛くもかゆくもないわけですね。

 そう。次から次へと新しいものが投入される。それは別に陰謀だろうと虚偽だろうと構わない。それが自分たちの作戦なんだと思っている以上、もう勝ちようがない。メディアや知識階級は負けるべく宿命付けられているところがあって、それはやはり恐ろしいことですよね。

――議論自体が成り立たないというか、そもそも議論の土俵に立つ気がない。

 議論をしたら負けるから議論はしない。事実かどうか検証するということも含め、実証的に考えるという行為自体を否定してしまっている。議論や検証をするのは知識階級であり、その存在を否定したいから、知を創出する手続き自体を無視するんです。

――困りましたね。どうすればいいんでしょうか。

 どうすればいいんですかね。ファクトチェックをしつこくしていく必要があるとは思うのですが、まとめサイトなんかを見ると、事実かどうかなんて本当にもうお構いなしですからね。この本(『ネット右派の歴史社会学』青弓社)が新聞で取り上げられたときに、その新聞の情報が2ちゃんねるに、2ちゃんねるの情報がまとめサイトに、まとめサイトの情報がTwitterにと、転載されるたびにどんどんと縮減されて、最後には私が言ったことと全然ちがうものになっていたのですが、それを見た人たちがわあっと攻撃してきた。そんなことは言ってないから本を読んでくれと言っても、500ページもあるこんな本なんて誰も読まないわけです。

 ちゃんとやろうと思うと、どうしても複雑さを見なくてはいけなくなる。でも、複雑さを見るというのはやっぱり知識人の仕事であって、そういうやり方自体が気に食わないから、あえて単純に、変な方向に捻じ曲げる。そういう人たちに対して「複雑さを見てくれ」と言ってもなかなか届かないんですよね。