イスラーム神秘主義と一般的に訳される「スーフィズム」とは、イスラームにおいて内面を重視し、真理を追究してきた人々の思想や実践の体系であり、その集合体です。スーフィズムはイスラームの教義や基礎とは別にあるものとして、異端視されてきた歴史もありますが、私が主に研究対象としているトルコでは、広く民衆の間で普及しています。その影響力の強さを考えると、イスラームの傍流というよりはむしろ主流であるかのような印象を受けます。

 トルコでは建国当初、スーフィー(スーフィズムの実践者)たちの活動が公的に禁止され、それは今も公には変わっていませんが、現代のトルコ社会ではスーフィズムに対して寛容なムードが広がっています。トルコにおけるスーフィズム関係の研究も90年代以降、どんどん増加傾向にあります。また、民衆の間では、当人がスーフィーであるか否かによらず、スーフィー聖者の墓廟への参詣がさかんに行われています。

 スーフィーたちは、基本的には「タリーカ」と呼ばれる教団組織に所属しながら、その方針に従って精神的な修行を行います。広く行われている修行として、神の名を繰り返し唱え思念を神に集中させる「ズィクル」と呼ばれるものがあります。ズィクルは単にスーフィーだけではなく、一般的なムスリムの間でも多くの人が、日常的に行う礼拝の最後に神への感謝や賛美を捧げるべく行います。

 スーフィーによるズィクルは教団によって異なる方法が定められており、何らかの形で修行に取り入れられています。例えば、神の名を呼ぶ声を心のうちに感じ取り、無声のズィクルを行う教団もあれば、太鼓のように激しく発声しながらズィクルを行う教団もあります。

 その一方、預言者ムハンマドの慣行(スンナ)を越える、「エキストラ」的な随意の修行というのは、スーフィーの修行過程において必ずしも行われるわけではありません。日本人にもよく知られる、「セマー」と呼ばれる回旋舞踊などがそれにあたります。現代のトルコでは観光事業と化してしまった回旋舞踊ですが、元は特定の教団で行われていた、身体の運動を通したスーフィズムの修行のひとつでした。

回旋舞踊「セマー」

 回転してトランス状態になることで神との直接的なつながりを感じることができるという効果もありますが、それと同時に、スーフィズム的な理念や神秘的な宇宙観を身体表現したものでもあります。回旋舞踊が行われる横で奏でられる、神を賛美する民族的な音楽(イラーヒー)も特徴的です。音色にのせて、スーフィーたちの詩が節をつけ歌われます。神秘的で、思弁的な思想や教えが身体を通して、舞踊や歌へと変容していくことによって、民衆の心が惹きつけられ、スーフィズムが普及するに至ったのではないかと思います。

 このように、スーフィズムには民衆の間でゆるやかに広がったという側面もありますが、元来スーフィーというのは、日常の細かな所作に至るまで修行を究めるストイックな人々でもあります。イスラームでは様々な戒律がありますが、形式的に戒律を守り、一方では嘘をついたり、傲慢な態度を取ったりする、それでも「信仰者」と名乗ることができるのか。そういった、「真の」信仰の在り方を究めていくことがスーフィズムの道なのです。

 例えば、スーフィーの文献では、一般的な信仰とスーフィーの信仰の違いに関して、次のように説かれます。すべてのムスリムが信ずべき『六信』(①アッラー ②天使 ③啓典 ④預言者 ⑤来世 ⑥予定への信仰)について、一般的なムスリムの信仰とは、これらの存在をありのまま信じ、追従(タクリード)するということであるが、スーフィーの信仰ではこれらの存在が真理であることを立証(タフキーク)しなければならない。

 戒律を形式的に守るだけでは、信仰者の心の問題がおざなりになってしまい、神の教えの本来の意味から遠のいてしまうのではないか。 これは、12世紀に生きた思想家アブー・ハーミド・ガザーリー(1058~1111年)の問いでもありました。彼はイスラーム法学や神学といった学問に精通した優れた学者でしたが、後に、より内面重視のスーフィズムへ傾倒したと伝えられています。

 スーフィズムは民衆に広まりタリーカとして組織化されることで、社会的に大きな影響を与え続けています。トルコのある女性団体には、スーフィズムの思想に共感した様々なバックグラウンドを持った人たちが集まっていました。元々はまったく礼拝もしない、西洋的な生活を好んできた人もいれば、厳格な家庭に生まれながら、その厳格さに疑問を抱いてきた人もいました。スーフィズムはストイックでハードな面がある一方、たくさんの人々の心を包み込むような、柔らかで優しい面もあるのです。

 私がトルコで親しくなったある一人の女性は、西洋的な考えの持ち主で、露出の多い服装を好む、バリバリのキャリアウーマンでした。彼女はあるスーフィーによる詩集をきっかけに、スーフィズムの世界に関心を持ち始め、それから「本当の」イスラームに触れたいと考えるようになったといいます。彼女にとって、スーフィズムが自らの宗教観や人生観を変えるきっかけになったということがとても印象的でした。トルコ社会に根付く西洋由来の世俗主義とイスラームという宗教の中間的な位置に、懸け橋のようにスーフィズムが存在しているように見えたのです。

 また、スーフィズムの柔らかな面を示すものとして、スーフィーによる詩作品を例にあげることができるでしょう。彼らの作品には、人々の心を和ませ、励ますような詩が多数存在します。例えば、17世紀のオスマン朝下のスーフィー詩人であるニヤーズィー・ムスリーによる、「わたしの苦悩のうちに治薬を探したら、わたしにとって苦悩こそが治薬だったようだ」と始まる詩は、まさにそのような癒しを与えてくれるものとして人々に親しまれています。

 トルコの大学で、スーフィーとは「詩を詠む人」であると教わったことがあります。スーフィーたちの詩を読むことは、スーフィズムを学ぶ上では最も甘くておいしい部分であるのだと。難解な分、深い味わいがあり、人によって解釈が異なることも多々あります。また、美しいと評されるスーフィー詩というのは、詠み人の清らかな信仰心が結晶しており、その短く凝縮された中に宇宙の広がりを感じることができます。

 このようなスーフィズムの厳しさと柔らかさという二面性は一見すると矛盾しているように見えるかもしれませんが、実際には厳しい面も柔らかい面も同じく、スーフィズムがどこまでも信仰者の「心」の問題を扱ってきたことを表しているのだろうと考えます。そして、そのようなスーフィズムの立場は、イスラームというアッラーへの「絶対的帰依」の道の外にあるものではありません。

 スーフィズムによると、人間にとって一番大切なのは、目に見えない世界に存在する真理です。さらに、そこから得られる智慧を自らの道徳規範として、我が身に浸透させること、実践すること、それこそがスーフィズムの真髄であります。

 正統―異端、主流―傍流、あるいは学者―民衆というように、宗教が包括するものを分断していくような判断に縛られず、多くの人々に親しまれてきたスーフィズムの教えは、イスラームの心を理解する上で必要なエッセンスに満ちています。この観点に立てば、スーフィズム研究は、イスラーム研究における王道であると言えるかもしれません 。

構成:辻信行