日本史における中世のはじまりは、かつては鎌倉幕府の成立からとされていましたが、現在ではその前の院政期からとする説が一般的です。外国からの脅威や戦争がなかったこの時代は、為政者の緊張感が薄れたのか、中国をモデルにした古代の律令国家の運営がだんだんとルーズになっていきます。上皇を筆頭とする朝廷の有力な貴族たちは実入りのよい土地を選んで自らの荘園とし、そこから直接年貢を吸い上げて財源を確保するようになりました。
しかしその後、鎌倉幕府が成立すると、諸国の荘園や公領には幕府によって地頭が設置されるようになります。ひとつの土地の統治に幕府(武士)と朝廷(貴族)の双方が関わるようになり、その混乱の影響で土地をめぐる訴訟が多発しました。
このような訴訟をまるく収めるために幕府は様々な手段を考えました。その一つが、起請文(きしょうもん)です。起請文とは、神仏に誓いを立て、その誓いが嘘だった場合や誓いを破棄した場合には神仏の罰を受ける旨を記した文書のことで、院政期から寺院や地域社会で用いられていました。幕府はこれをどのようにして、裁判に取り入れたのでしょうか。
一つの例として、参籠起請(さんろうきしょう)と呼ばれるものがあります。これは、訴えられた者が、自分の無実などの誓いを立てた起請文を書いた後に一定期間神社などに籠り、誓いが偽りであった時に発生する「失」という現象の有無によって誓いの真偽を判定する方式です。判定のポイントとなる「失」には、本人の病気や家族・親戚の死などがありました。要するに、起請文を書いてから被告の身に何も起きなければ無罪、「失」が現れたら有罪というわけです。現代の常識からすると乱暴な気もしますが、この方法であればどんなややこしい問題でも必ず白黒がつけられ、関係者にも納得してもらうことができるため、幕府はこれを大いに利用したのでした。
これに対してもう一方の権力者である朝廷には、鎌倉時代に起請文を利用した形跡がほとんど見られません。古代から政権を担ってきた貴族たちにとって、政治とは、古代に定められた律令や「今までどのようにしてきたか」という先例に則って儀式を執り行うことでした。そこでは律令や先例によって様々な政治的決定が正当化されており、神仏の力によって何か新しいことを行うという必要がなかったと考えられます。
但し、朝廷の場合も、新しい国づくりを行うことがあれば、神への誓いがなされたかもしれません。律令国家が生まれる七世紀には、『日本書紀』にみえる「吉野の盟約」のように天地の神々への誓いがなされましたし、明治維新の際には明治天皇が天地神明に誓う「五箇条の御誓文」が出されました。
承久の乱で朝廷との戦いに勝利したとはいえ、鎌倉時代の幕府の体制は非常に不安定なものでした。そもそも「幕府」という呼称自体後世のものであり、当時は確固とした集団や機能があったわけではありません。突然政権を担うことになった彼ら自身が、恐らく、「自分たちはいったい何者なのか」という「実存の悩み」のようなものを抱えていたのではないでしょうか。そして、中世社会で起こる様々な問題にどう向き合っていくのか、とても戸惑っていたのではないでしょうか。
その解決策として、彼らが頼ったのが神仏でした。現に、最初の武家法典である「御成敗式目」を制定した北条泰時は、この法に則って公平無私の政治を行うことを誓った起請文を作成しています。朝廷のように先例をもたない彼らは、神仏の力によって自分たちの正統性とアイデンティティを基礎づけようとしたのでしょう。
このようにして幕を開けた武士政権ですが、時を経るごとにかつての朝廷と同じく、先例が墨守されるようになっていきます。体制ができあがり、事例が蓄積されていくと、以前やった通りにやる方がラクなのは間違いありません。人間、ラクな方に流れてしまうのは、いつの時代も変わらないことのようです。
文責:トイビト加藤