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中村桂子さんの「生きものとして生きるということ」、まったく納得です。中村さんは分子生物学をやって、それを極めたから(科学に極めるということはないだろうが)、いわゆる生命科学がいのちとか生命といわれるもの(生きものが生きていることそのもの)を掴む手から取り落としてしまう(解明されるのは影ばかり)ことに気づき、自分が求めていたものは「生きること」そのものを知ることだったのだと翼を広げて「生命誌」を志すようになった。結局それは「生きている」ことからの気づきの集成のようなものだが、そこ(日常生活)にこそ人間の「問い」の原野がある。その原野のそのつどの相を、科学の日傘をさして歩きながらあらためて発見する、それは人の知的営みというものの「ふつう」で「ありうべき」(なかなかふつうでありえないから)姿だと思います。

西垣通さんも、「生命情報」をあらゆる情報(とその処理)の基礎におきますが、そのときやっぱり「生命」は「把握された(と扱われる)生命」になってしまいますよね。情報科学関係ではいつも頼りにし勉強させてもらっていますが、やはり「ロゴス」の全能性から解き放たれてはいないのではないでしょうか(オート・ポイエシスとかニクラス・ルーマンのコミュニケーション・メディア論は、やはり「いのち」を抽象する機能論に陥って陥ってしまうと思います)。

認識の分水嶺は、科学(論理・ロゴス、サイバネティクスもオート・ポイエシスも含めて)のうちにあるのではなく、科学とその他のことばで表現される知の間にあるのでしょう。

2024.09.05

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